スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

家康の伊賀越えルート

goieyasu.jpg本能寺の変の時、家康は堺にいて、命からがら三河に逃げ帰った。
その時のルートで、伊賀を抜け、白子から船で伊勢湾を渡り、知多半島に上陸、成岩から再び船で大浜へ渡り、三河へ・・・

この話、江とは関係ないと思っていましたが、
大河ドラマ5話目で、なんと江が家康の伊賀越えに帯同していたので、お話ししましょう。

地元では、家康は大野に上陸したいう説があります。
ていうか、まず、まちがいないんじゃないかなと思います。

大久保彦左衛門の書いた「三河物語」~元和8年(1622)~では上陸地点は大野となっています。
また、半田市成岩の「常楽寺由緒」~寛永14年(1638)~には、
家康、大野の東龍寺に到着。後、東龍寺住職に案内してもらい、常楽寺に着いたとされています。
東龍寺住職は家康の母(於大の方)の妹の子にあたり、常楽寺住職はその東龍寺住職の弟にあたります。
その他に大野の大庄屋・平野家の文書にも、家康は大野にきたと書かれています。

常滑に上陸したいう説もありますが、こちらは、伝承と状況証拠だけで、特に文献はないようです。
仮に常滑に上陸したとしても常滑城の水野監物は明智方の付いてしまったことを訊いて身の危険を感じ、急遽大野に向かったのではないのでしょうか?(これが正しそう)

もうひとつ、白子から舟に乗り、いきなり大浜(現碧南市)の着いたという説があるそうですが、これは論外でしょう。
一色か吉良あたりに上陸ならわかりますが、どうして知多半島を沿うように大きく迂回する必要があるのでしょうか?
しかも根拠が大野と大浜を書き間違えたのだろうとのこと。
大野は、尾張国なのに、三河国と間違った注釈が現代の本に書いてあるのでこの説がうまれたのでは。
三河出身の大久保彦左衛門が三河の地名を間違えますかねえ。


大河ドラマでは、大野に上陸した江が、大野城主佐治与九郎一成と出会い色々助けてもらい、二人は恋に陥る。
そして、後年、二人は秀吉の反対を押し切って結婚。しかし、それがあだとなって、与九郎は大野城主の立場を追われ、強制的に離縁させられる。与九郎の命と引き換えに江は小吉秀勝との再婚を承諾する。小吉秀勝の死後、政争の道具に使われることに反発した江は、与九郎の一字を取って、お江与と改名する。戦国の悲しい恋の物語…
な~んて脚本はいかがでしょうか、田淵久美子さん。
(ヨクロー)

続きを読む

スポンサーサイト

tag : 大河ドラマ 家康

家康が大野に訪れた回数

家康は大野に三回訪れています。

初回は、1560年(永禄3年)桶狭間の戦の時、家康は大高城から大野庄に落ち、家康百姓家に、家人は東龍寺に宿泊
(三河海東記)

2回目は、前回お話しした、1582年(天正10年)本能寺の変の時、家康、堺から岡崎に逃げ帰った途中、大野に上陸。(三河物語)
東龍寺に三日逗留(東龍寺縁起)

3回目は、1611年(慶長16年)、初代尾張藩主徳川義直と一緒に熱田より船で三河の吉田(現豊橋市)に向かう途中、強風のため、大野に到着。平野家に止宿してます。
御止宿御事
一慶長十六年辛亥四月
東照宮様御上洛還御名古屋四月廿二日着御同廿三日勝田より御船三州吉田渡御源敬様御同船にて風烈しく御船危うきに付大野湊着御此節私宅に遊ばさせられ御止宿候事
(平野家文書)

byakusin.jpg
写真のビャクシンの木は家康が賞賛したという大野にある名木です。
昭和4年発行の「大野町史」によると「この地方の大庄屋平野家に徳川家康が二度来宿。その都度此樹につきて賞賛を得たり」と記されています。
樹齢600年以上樹高15.0m幹周4.0m。樹勢はかなり旺勢であり、樹木では数少ない、県指定天然記念物になっています。
平野邸(大野町6-39)にあります。
(ヨクロー)

続きを読む

tag : 大河ドラマ 家康

家康伊賀越え・常滑上陸説について

常滑の知人に訊いてみました。家康・常滑上陸説。
「天正10年(1582年)本能寺の変の際、堺に滞在中の家康は、急ぎ岡崎城に帰るため、伊賀山中を越え、伊勢白子の浜から柴船に便乗して常滑(市場村)の浜に上陸。庄屋・衣川八兵衛の世話のもと無事、三河の大浜まで家康を送り届ける」
出典はなく、やはり伝承とのこと。

神君伊賀越えの知多半島上陸が書かれている文献(三河物語・常楽寺由緒等)には、そのような事は全く書かれてない。
しかし、一点だけ、衣川八兵衛の名が書かれている文献がある。
それは、三河海東記。
ただ、衣川八兵衛の名は、本能寺の変ではなく、それより22年前の永禄3年(1560年)桶狭間の戦いのところに書かれています。
桶狭間の戦いの時、元康(家康)は大高城にいて、信長勢が押し寄せてくるのを怖れ、大野庄に退く。
その時の様子が実にリアルに書かれている。
大野東龍寺に家臣達を、元康は名有百姓(ぬかや)方に潜入す。浅野六助はその間、状況を確認するために大高へ。
安全を確認後、元康一行は常滑に向かう。そこで衣川八兵衛なる者を案内につけ、成岩まで帯同させる。
常楽寺参拝の間、衣川が船を用意し、無事三河まで着船させる。

これが真相。
どうやら、家康・常滑上陸説は、本能寺の変と桶狭間の戦いを取り間違えて伝わった伝承のようです。

02siba.jpgしかし、
衣川八兵衛の功労は間違いないですね。

後に、家康から下賜(げし)された観音像を、衣川家が代々所持し、これを祀っていました。
大正11年(1922年)、衣川家は移転のため、常滑町字市場にこの祭主を委譲。
町民の賛同を得て、この地にその社が建立されました。
現在では、柴船権現として、家康の命日である旧暦の4月16日の直前の土曜日に常滑市市場区が大祭を行っています。
今年の柴船権現まつりは、5月14日(土)です。
私、今年行ってみようと思います。
衣川八兵衛さんは、私の事をどうお思いになるのでしょうか?

地元の土産で、「柴船最中」が美味しいとのこと。

柴船権現社:名鉄常滑線常滑駅から河和行又は知多半田行バス「市場」下車徒歩2分
(ヨクロー)

tag : 菓子 家康

常滑・市場地区の柴船権現祭

sibagongen.jpg
去る5月14日(土)常滑・市場地区の柴船権現祭が開催されました。
礼拝には、常滑市長等来賓も多数出席され、囃子も街中に繰り出し、露店も立ち並び、かなり盛り上がっていました。

実は、この記事載せようかどうか、かなり悩みました。
以前から、「本能寺の変の時の神君(家康)伊賀越えで知多半島に上陸したのは、おらの村の方だ」と常滑と大野で論争が存在していまいた。
(そんなのどっちだっていいじゃんと歴史に興味のなかった以前の私はそう思ってましたが…)
しかし、当会が文献をもとに調査した結果では、かなりの精度で大野説でまちがいないという結論に達しました。
ある大野在住の人に、
「ヨクロー君、よくやった。大野の勝ちだ。ざまあみろと書いてやれ」と言われました。
しかし、とてもそんな気にはなれません。
時期が、桶狭間の戦いの時と本能寺の変と間違えてるだけで、家康を助けた衣川八兵衛の話は事実です。
下賜された観音像も存在する。
むしろ、歴史を紐解き、祭りを開催し、まちおこしに頑張ってらっしゃる常滑さんが羨ましいくらいです。
同じく家康を助けた、大野の百姓ヌカヤさんも観音像を下賜されなかったのだろうか?

・於大の生誕の諸説で、刈谷市と東浦町で論争があり、結果、既成事実作りで於大公園・於大まつりなどができた。
・桶狭間の戦いの場所の問題で、名古屋市緑区と豊明市の二ヶ所で別々の桶狭間祭りが開催されている。
他の地区も似たような事例があるようだ。
ただ単に真実を求めればいいというものではないような気がする。

特にヌカヤ権現祭を行えとは言いませんが、
歴史ある町・尾張大野も、町の特色を活かし、何か新たなまちおこしをされてみてはいかがでしょうか。
(ヨクロー)

tag : 祭り 家康

プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

カテゴリ
最新記事
最新コメント
検索フォーム
FC2カウンター
リンク
フリーエリア
月別アーカイブ
夢を叶えるための名言集


presented by 地球の名言
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
The Great Dodecahedron
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。