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「常滑史話索隠」を考察します。

「常滑史話索隠」(昭和40年発行、瀧田英二著)は、大野佐治家について詳しく研究されている著書です。

去年秋、沢山の大河ドラマ「江」の便乗本が出版されました。
どれだれ高名な歴史家が書かれたかどうかは存じませんが、江の最初の結婚の項目を読む限り、「常滑史話索隠」と比べると、付け焼刃的な内容の本ばかりであると言わざるを得ませんでした。
中には、佐屋川が大野川になっていたり、与九郎の名が弥九郎になっていたり、内容以前の問題の本もありました。
史実とドラマは違うといえばそれまでですが、大河ドラマの影響力を考えれば、とても残念に思いました。

それらの本と「常滑史話索隠」とでは、あまりに差が大きすぎる。
今一度、このブログにて、この著書の内容を紹介考察することによって、少しでも皆さんが、佐治のこと、江の前半のことの真実に近づいてもらえたらと思います。

まず、「常滑史話索隠」の著者・瀧田英二氏とはいかなる人物か、ご紹介します。
(つづく)
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tag : 大河ドラマ

著者・瀧田英二氏

尾張大野歴史資料館で説明させて頂いていると、逆に来館者に教えてもらうことがある。
「瀧田英二さんかね。よく知ってるよ。よくうちに来て、何遍も話しを聞きに来られた。資料とかもよく借りていって、ちっとも返さなんだ。うちだけでなく、そこら中で苦情が絶えなかったそうだ。ハハハ」
「常滑史話索隠」を読むと、かなりの文献を調べられているが、フットワークもかなりのものだったようだ。

eijitoisi.jpg瀧田英二氏は、1904年(明治37年)常滑に生まれました。
1926年(昭和元年)、東京帝国大学文学部国文科に入学。
大学では、「春の小川」の作詞家として、また近松門左衛門の浄瑠璃研究者として有名な高野辰之や日本史学の三上参次らに学びました。
大学卒業後すぐに軍隊に入り、そのかたわらで演劇史、仏教史などの研究を進めました。
しかし、1934年(昭和9年)の父瀧田貞一の死後、瀧田家を嗣ぎ、常滑に戻ることに・・・。
英二は、高野辰之・三上参次といった優れた研究者の仕事を手伝うなかで研究を深めましたが、研究者の道に進まず、父貞一と同様に、常滑で地域の発展に尽力する道を選び、瀧田織物株式会社社長、常滑通運株式会社取締役社長として、常滑財界で活躍しました。

大学在学中に知り合った女優花柳はるみ(糟谷いし)との間に、文彦、あゆちが生まれました。
しかし、英二といしが正式に婚約するのは、第二次世界大戦末期の1945年(昭和20年)4月のことです。
(*花柳はるみは「日本映画の女優第1号」として知られる人です)

戦後、英二は、若いころの研究を活かし、大野宮山城主佐治氏と織田信長との関係、常滑焼の陶工・上村白鴎、大野の木綿問屋である浜島伝右衛門などをテーマとした郷土史研究に力を注ぎました。
その成果は、瀧田英二著『常滑史話索隠』(1965年・昭和40年)に結実しました。

長男文彦は、研究熱心な父英二の姿をみて、フランス文学者になりました。
また、長女あゆちは、日本航空(株)初の女性管理職となり、日本のキャリアウーマンの先駆的な存在として脚光を浴びました。
妻いしを亡くした後、英二は常滑を離れ、長女あゆちとともに東京で暮らし、1998年(平成10年)、94年の生涯を閉じました。

常滑やきもの散歩道の中にある資料館「廻船問屋瀧田家」(常滑市栄町4ー75)は瀧田英二氏の生家だったところです。

(ヨクロー)

「常滑史話索隠」の中の項目

「常滑史話索隠」とは、常滑の郷土史における研究をかなり掘り下げて書かれた本です。

内容は、
大野佐治考・浜島家系譜私案・常滑城主歴代・竹腰三信余攷・白鴎伝の研究・常滑名義小考
の項目から成り立っています。

今回は、「大野佐治考」の紹介になります。
さて、ここの項目は、さらに
・大野佐治系図
・八郎
・八郎の父
・左馬充
・与九郎(佐治一成)
・旧臣
という小項目に分類されます。

特に「・与九郎」の部分は、大野佐治考の中の4割近くを占める38ページ分も費やしています。
さらに、ここは、
・享年
・大野退去の真相
・妻室
・子孫
に分類されています。

ここの中の「・妻室」に、のことが書かれていますので
今後、ここを中心にご紹介させていただくことになります。
(ヨクロー)

tag : 大河ドラマ

与九郎(佐治一成)の妻室 

与九郎(佐治一成)は、三度結婚しています。
偶然にもと同じ回数ですね。

「大雲山志稿」所載「佐治系図」に、

妻。浅井備前守女。豊臣秀吉公夫人淀殿之妹。有故離縁。
其後娶渡邊小大膳女。
此妻卒後。又娶信長公息女於婦里。法名厳妙練号康清院。


とあります。

初婚相手 (浅井長政娘)
再婚相手 某(渡邊小大膳娘)
再再婚相手 振(織田信長娘)

次回一人一人吟味して紹介します。

(ヨクロー)

tag : 大河ドラマ

再婚相手・渡邊小大膳娘

順番を変えて、まず、再婚相手から説明します。

これについて、わずかに4行しか書かれてない。
東大歴史編纂所の瀧田氏をもっても、
渡邊小大膳娘ついては残念ながら全く傍証か獲られてない。
渡邊家は、おそらく織田信包家に何か縁があった家柄か?と、推測の域から脱していない。
一成の子の殆どが、このよくわからないこの人物との間にできた子である。

ちなみに私も調べたが全くわからない。
ひょっとして誤字かと思って、
大野及び佐治に関連がある「渡部大膳」「菅沼小大膳」も調べたが年代が該当しない。

「渡邊小大膳」が書かれている文献はどこかに存在しないのだろうか。
ご存知のある方はぜひ連絡頂きたい。

(ヨクロー)

tag : 大河ドラマ

再再婚相手 於振(織田信長娘)

佐治一成の再再婚相手の「於振」とは、信長の末娘で、彼女も再婚である。

最初、「於振」は、三河水野藩主・水野忠胤(みずのただたね)に嫁ぎ、一男二女を儲けたが、
慶長14年(1609年)夫・忠胤は家臣の悪行を取り締まれなかったため、家康より切腹を命じられてしまう。(徳川実記より)
その際に離縁となり、遠縁にあたる、前妻と死別した一成の所に入輿することになった。

「羽前天童織田家譜」・法華寺の「織田系図」・「大雲山志稿」の「織田系図」に、佐治一成と於振の婚姻は書かれている。

「一成が初老の頃の再再婚だが、二人の間に、子女の一人位は儲けたであろうと思われる」と瀧田氏は述べているが、私にはその確認がとれない。
ウィキペディアでは、「一成は、於振との間に嫡男・為成がいる」と書かれているが、為成は大坂の陣に出陣しており、年代的に全く合わない。明らかにおかしい。
やはり、一成の子の殆どは、再婚相手の渡邊小大膳娘との間の子であったと思われる。
の再婚時期によっては、ひょっとしてとの間に子があったという可能性はゼロではないが…)

一成は、寛永11年(1634年)京都で没。「於振」はその9年後、寛永20年(1643年)没した。
彼女は父・信長の所縁から、牌は龍安寺の霊光院(後に墓も見つかる)に、墓標を大徳寺の総見院に残すこととなった。

「常滑史話索隠」の中の「於振」については、29行費やしている。

ところで、晩年の一成は、モトカノ・が将軍の妻になっていることを知らないわけがない。
どういう思いだったのだろうか。
大河ドラマでやってくれると面白いと思うのだが、まああの脚本なら無理でしょう。

次回は、初婚相手・です。

(ヨクロー)

tag : 大河ドラマ

初婚相手 江(浅井長政娘)その1

については、11ページも費やされている。
再婚・再再婚相手の二人と比べ、断然に多い。
よって、分けてお話しすることにします。

冒頭、「武徳編年集成」・「大三川志」・「御年譜微考」・「参州実録」等に書かれている佐治日向守の俗説の払拭から始まっている。
これは、以前もお話しさせていただきましたが、佐治日向守とは一成の父。その妻が秀吉の妹・朝日姫。日向守の子・一成の妻は。小牧長久手の戦いで、佐治父子が家康を佐屋の渡しで助けたので、秀吉が怒って、朝日姫とを奪い取り、佐治父子は自殺してしまったというもの。
一成の父の名は、日向守でなく、信方。信方の妻は信長の妹・於犬の方。信方は小牧長久手の戦いの10年前の長島一向一揆の戦いで討ち死にしているし、一成も、皆さんもうご存知のとおり、自殺はしていない。

この話が明らかに俗説であるのは、私如きでもわかったし、地元郷土史家たちも知っている。

この俗説は、我々はもう過去のものと思っていた。
「常滑史話索隠」は、もう46年も前の昭和40年に発表されたものだ。
その後に発表された、佐治&を題材にした歴史小説で、この説を採用している作家を私は知らない。

しかし、大河ドラマでは、これを参考にされてた。
なんとあの影響力の大きい大河ドラマで。
何度も言うが、佐治一成は小牧長久手の戦いには参戦していないし、佐屋の渡しで家康を助けたという史実は出鱈目である。
地元で著名な某郷土史家は、大河の原作脚本家を烈しく批判する。
それを書いたコラムを尾張大野歴史資料館に置くよう要求する。
私は、NHKさんには地元の武将を取り上げて頂いたことに対し感謝しているし、結果的に人の説に対する批判めいたものは展示できないと、やんわり断る。
でも、彼の気持ちは痛いほどわかる。

数日前、久しぶりにビデオで大河を見た。
「佐治一成様はとてもやさしい方でした」の上野樹里(役)の一言は、我々地元に対するマスターベーションに聞こえ、複雑な気持ちになった。

(ヨクロー)

tag : 大河ドラマ

初婚相手 江(浅井長政娘)その2

「続群書類従」所収「浅井系図」・「太閤素生記」・「右二記」に、
は、三度結婚、初婚は佐治一成・再婚は小吉秀勝・再再婚は徳川秀忠だと、記されている。

まず、の三人目の夫・秀忠との婚姻時期から焦点が当てられている。
その時期には「御家御続帳」や「徳川実記」台徳院殿(秀忠)の巻文禄4年の事項に、文禄4年(1595年)9月17日と、明確に記されている。
この点においては、何ら不審は無い。私も否定しようがないし、否定している人をしらない。

これ以降になると、の足取りはぐんと明るいものとなる。

sada.jpgただ、瀧田氏は、小吉秀勝との間の子・完子は、秀忠養女で、連れ子であったと主張する。
これは推測でもなんでもない。
根拠は、「東福寺誌」所引の塔頭大機院の「雨壇歴代御廟記」に、
天真院 台徳院秀忠公猶子、実丹波少将秀勝卿女、太閤惟忖院幸家公之政所完子、萬治元年戌8月十八日逝
と記されているからだ。
このことは、渡辺世祐博士の「豊太閤と其家族」・「豊太閤の私的生活」に於いても詳説されている。
そして「寛政重修諸家譜」以下の誤りを繰り返す者を、今なお耳にすることは遺憾である。とまで瀧田氏は言っている。

完子は、茶々に養育されておらず、の連れ子として、徳川家で育てられた。


どうなんでしょうか?
ちょうど今、大河で、ここら辺のことをやっていますね。
この点にお詳しい方、ぜひコメントをお待ちしております。

(ヨクロー)

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初婚相手 江(浅井長政娘)その3

秀忠の次は、の再婚相手・小吉秀勝について書かれています。

秀勝と称した人物は3人いる。
まず、秀吉の側室南殿との間に出来た子・石松丸。天正4年、6歳で夭折。
次に、信長の四男で秀吉と養子縁組をした於次丸。天正13年、18歳で病死。
そして、秀吉の妹智子の次男で、秀次の弟・小吉。彼がの再婚相手である。

この結婚の時期は、小吉が叔父秀吉と養子縁組した際の天正14年と瀧田氏は推測する。
根拠は、於次の死去によって、織田家とのつながりが断ち切れてしまうのをおそれ、強引に一成と離縁させ、再婚を断行したというもの。

しかし、その時期でその根拠であるなら、今度は私が反論したくなる。
仮に、そういう根拠で時期が天正14年なら、なぜ、相手は未婚の初でなく既婚のなのか。(初は天正15年、京極高次と結婚)
一成は、信長の妹お犬の方の子。初という対象が残っていながら、それでも信長の甥姪にあたる夫婦を無理に離縁させてまでを選択するのだろうか。ちなみに一成の弟・秀休(織田熊介)は、秀長に仕え、秀吉の一字を貰い、主君の失った中川家に養子行き、決して冷遇はされていない。
別の時期・別の理由があるような気がしてならない。
(大河のように、家康を助けたからとか、格下だからという理由は論外)

小吉、永禄12年(1569年)生まれ。偶然一成と同い年である。

天正13年(1585年)12月10日丹波亀山城主・於次秀勝死去により、秀吉の養子となり、秀勝と名乗る。
天正18年(1590年)小田原陣後、甲府に移り、更に翌年岐阜に移り、岐阜宰相とも呼ばれる。
文禄元年(1592年)9月9日、朝鮮出兵、朝鮮唐島にて戦病死。
「多聞院日記」にはそう書かれている。

また、この著書の中ではないが、
「兼見卿記」天正13年(1585年)10月20日の条に、18日に「小吉祝言」と書かれている。
これは、との結婚を意味するのかどうかは学者の中で意見が分かれているという。
於次存命中で、小吉はまだ秀吉の養子になる前の時期であるので、確かに早すぎる感は否めない。
多産のにしては、第1子誕生に9年もかかってしまったことにも気にかかる。
ただ、これ以外の江の再婚時期と思われる資料を、私は知らない。

江の再婚について、どなたかご教示願います。

(ヨクロー)

tag : 大河ドラマ

初婚相手 江(浅井長政娘)その4

さて、と佐治一成の婚姻の件である。

妻。浅井備前守女。豊臣秀吉公夫人淀殿之妹。有故離縁 「佐治系図」

秀忠公室。初嫁、佐治與九郎法名壺哉。後丹波少将某生女完子 「浅井系図」

三女ハ幼名督(御名小督御料人トイフ)先尾州佐地與九郎ト云人ノ方へ被成御座 「太閤素生記」

とある。

婚姻時期は、北の庄城落城後から、大野城落城の間、すなわち、天正11年(1583年)4月から天正12年(1584年)3月の間。
この間以外では考えにくい。
大河ドラマでは天正12年(1584年)正月頃婚姻でしたね。
私はもう少し早いような気がしますが…。を生娘で終わらせる演出上でしょうか?

、わずか十二歳で婚姻!この年齢に抵抗を感じる人も多いと思います。
瀧田氏は、の出生年はもっと前だという説を唱えています。

長政卿の御女にて、御諱は達子と申す~寛永三年の九月十五日、御所に先だちてかくれたまふ、御年五十四歳なり
「以貴小伝」

これをもとに逆算して、が天正元年(1573年)生まれだという根拠となっています。
だが、長政には三姉妹の他に万福丸と万寿丸がいて、
小谷城落城(天正元年)当時、10歳だった万福丸は、秀吉により磔処刑された(翁草)が、
万寿丸は赤児だったため命は助けられた。
となると、と万寿丸が同じ年に生まれたことになってしまう。双子?
然るに、江はもう少し前に生まれたであろうと瀧田氏。

江が天正七年(1579)生まれの夫君秀忠に比し、大分の年長であった事実を努めて隠そうとしていた所から、(以貴小伝が)誤れることになったものと想像する。と本書にはそう書かれている。
私、こういう深層心理からみた推理には結構納得してしまう。

一成十六歳、江十四歳の婚姻
ならば、当時としては普通の婚姻。
(例えば、前田利家の妻・まつは数えの十二歳で嫁しています)

最後に、私はもう一つ大きな疑問をもっている。
なぜ、三姉妹の三女が最初に嫁したのか?という点。
その回答は、残念ながら、この著書にも書かれていない。

私はない知恵をしぼって色々考えてみた。
おそらくあれではないだろうか。
別の機会に話すことにします。

(ヨクロー)


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プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

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