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お江と佐治与九郎について話します。

uenojuri.jpg2011年NHK大河ドラマ「江(ごう)~姫たちの戦国~」の主役・お江役に上野樹里さんが抜擢されました。
映画『スウィングガールズ』やドラマ『のだめカンタービレ』等で主役を演じ、人気を博した若手実力派女優ということで、大いに期待したいと思います。

「お江」…
二代将軍徳川秀忠の妻であり、家光の母であるお江の最初の嫁入り先は、なんと地元・大野城の四代城主佐治与九郎一成だった。
ということで、当会としては、この案件は絶対避けて通れないと思っています。

今後、お江と佐治与九郎について調べたことをお話したいと思います。
二人の接点は、1583年(天正11)の賤ヶ岳の戦後から1589年(天正17)秀吉の命でお江が小吉秀勝と2度目の結婚をするまでの間です。この間にいつ結婚していつ離婚したのかは文献がなくはっきりせず、諸説入り乱れています。
結婚後、まもなく大野城は落城の憂き目に遭いますが、落城の真相もはっきりしてなくこれも諸説があります。
前述の伝説では、大野城は焼かれお江は佐治家の掛軸をもって命からがら逃げ延びたというのもでしたが、それもいろんな説の中の一つに過ぎません。
次回はそのいろんな説を紹介したいと思います。
(ヨクロー)

 ヒルクライム 春夏秋冬

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tag : 大河ドラマ

大野城落城の諸説

ここのカテゴリーでは、主に、お江とお江の最初の嫁入り先・大野城主佐治与九郎とは、いつどのように結婚・離縁させられたのかを研究したものを記します。

まず、その結婚離縁にはさまれるように、大野城はいつどのように落城したのでしょうか。
その事実を書かれた古文書はなく、
諸説を紹介します。

○与九郎が小牧山の合戦で家康に味方をしたので、秀吉の怒りを買って大野城滅亡。(系図総覧)

○天正年間、宮山城主佐治与九郎は、秀吉と一戦に及び、落城。その日金蓮寺一山迦藍、僧坊、兵火のために焦土となる。(安永8年筆、大野宝蔵寺蔵、大般若経経匱由来書)

○天正12年4月、小牧での一戦の後、家康が三河へ帰る途次、佐屋の渡りで船がなくて困っていたとき、佐治与九郎が船を提供、家康は無事岡崎へ帰ることができた。それを知った秀吉が怒って、お江を呼び戻し、大野城を滅ぼした。(柳営御婦人伝記)


○秀吉が、明智光秀・柴田勝家を成敗の後、尾張一圓は、信長の三男織田信雄に帰した。佐治与九郎もその信雄の輩下に属し、信雄の重臣、岡田重孝は、星崎の城に配置された。しかし、岡田は、天正12年3月6日、秀吉に内通する疑いで信雄に殺された。主を失った星崎城は、篭城して旧主信雄に対する構えを見せたが、緒川の水野忠重・勝成父子のもとに陥落した。その時、岡田方に味方した大野城も、旧主信雄の手の者に攻め滅ぼされた。(瀧田英二氏説)

三番目が通説となっているようですが、果してどれが真実でしょうか?

oonojonozu.png

また、いつ落城したのか?
1585年(天正13年)に書かれた織田信雄分限帳には佐治与九郎の名は見当たりません。
よって1585年以前、かつ、お江の嫁入り(1583年4月賎岳の戦い後)後
落城したものと思われます。

二人の父を失い、母・お市を失い、新婚早々すぐ落城の憂き目に遭う。
お江の不遇の時代はまだまだ続きます。
(ヨクロー)

 Captain & Tennille-愛ある限り( Love Will Keep Us Together )

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お江の略歴

ogou1.gifお江は、天正元年(1573年)生まれ。
小督(おごう)、徳子、お江与、達子(さとこ)、崇源院(すうげんいん)
父は小谷城主・浅井長政。母は信長の妹・お市。
浅井三姉妹の末娘。
長姉・茶々(淀殿)は豊臣秀吉の側室、次姉・初は京極高次の正室。
お江が生まれた年の9月、父長政は小谷城の戦いに敗れ、自刃。
その後、三姉妹とお市は信長の弟・織田信包が保護。(三姉妹は秀吉の養女に)
天正10年(1582年)母・お市、柴田勝家と再婚。越前国北ノ庄城へ移る。
翌年4月、賎ヶ岳の戦いで北ノ庄城落城。父母とも自刃。

その後、お江は尾張国大野城主・佐治与九郎一成(母お市の妹・お犬の子。従兄にあたる)と結婚。
大野城落城。与九郎は信包の家臣に。
そして、秀吉の命で強制的に離婚。

天正15年(1587年)次姉・初は京極高次の正室に
天正16年(1588年)長姉・茶々は豊臣秀吉の側室に
天正17年(1589年)岐阜城主・豊臣小吉秀勝と再婚。
文禄元年(1592年)秀勝、朝鮮出兵中病死(9/9)。同年、完子(さだこ)出産。完子は淀殿の養女に。
文禄4年(1595年)徳川秀忠と再々婚(9/17)
慶長2年(1597年)山城国伏見城内の徳川屋敷で千姫出産(4/11)
慶長3年(1598年)秀吉病死(8/18)
慶長4年(1599年)珠姫出産
慶長5年(1600年)長丸出産(?)
慶長6年(1601年)江戸城西の丸で勝姫出産(6/12)
慶長7年(1602年)初姫出産(8/25)。長丸2歳で病死
慶長8年(1603年)千姫、7歳で豊臣秀頼と結婚
慶長9年(1604年)家光出産(8/12)
慶長10年(1605年)秀忠、二代将軍に
慶長11年(1606年)忠長出産
慶長12年(1607年)江戸城大奥で和子出産(10/4)
慶長20年(1615年)大阪夏の陣で、淀殿・秀頼死去。千姫は救出。
元和2年(1616年)家康死去(4/17)。千姫、本多忠刻と再婚
元和6年(1620年)和子、入内(後水尾天皇の中宮に)
元和9年(1623年)家光、三代将軍に
寛永3年(1626年)死去、54歳(9/15) 火葬される。
<誤りのご指摘、異説等ございましたら、御連絡ください>

oinuoichi.jpg
与九郎の母・お犬(写真左)とお江の母・お市は姉妹。

お江の人生は、時代に翻弄されながらも時代に逆らわない人生を送り、結果として、将軍の妻になるというシンデレラガールに。
しかし、それは彼女が望んだ幸せだろうか?
豊臣方・姉淀殿と敵対関係に…春日局との後継争い…
もし秀吉に政治の道具に使われなかったら。

思春期に一緒に過ごした佐治与九郎との蜜月の日日。
その時が彼女にとって一番幸せだったのではないだろうかと、私は勝手に推測している。
与九郎は、母お犬がかなりの美人だから、それなりの美男子だったであろう。
それに比べ、強制的に離婚させられた後、再婚相手は隻眼醜男(注:隻眼ではなかった説もあります)、再々婚相手は六つも年下。
運命と受け止めつつも、小娘の内心としては快く感じられないのでは。
お江は秀忠と再々婚の時、お江与と改名。
その名は江戸に与えるという意味で名付けられたという。
しかし、お江与の与は与九郎の与でもある。
改名は小娘のささやかな抵抗?
考え過ぎかな。(ヨクロー)

 「幸せの黄色いリボン」 ドーン

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与九郎の略歴

佐治与九郎一成は、永禄12年(1569年)生まれ。嫡男。兄弟は二男一女。
与九郎は通称。信時、為吉、為次、一成
父は、尾張国三代目大野城主・佐治八郎信方。母は織田信長の妹・お犬。
弟、秀休。後に中川家に養子。妹は水野忠分の室に
天正2年(1574)父信方、長島一向一揆にて戦死。22才
天正5年(1577)母お犬、細川昭元と再婚。昭元との間には一男二女を儲ける。
天正10年(1582)9/8母お犬死去。6/2本能寺の変。お犬の姉・お市、柴田勝家と再婚。
yokurouzou.jpg天正11年(1583)?お江と結婚
天正12年(1584)岡田事件後小牧長久手の戦い開戦
天正12年(1584)?大野城落城
天正13年(1585)?織田長益が大野城近くに大草城築城始める

・その後、安濃津城主の伯父・信包の元に逃れ、家臣になる。
・秀吉の命で、お江と離縁。
・渡辺小大膳の娘と再婚。一男三女を儲ける。
・嫡男為成は弟中川秀休の養子に。

天正17年(1589)お江、小吉秀勝と再婚
天正18年(1590)信包、小田原征伐のときに北条氏政・氏直父子の助命を嘆願、秀吉の怒りをかう
文禄3年(1594)信包、近江2万石に移封されるも、慈雲院に隠棲、剃髪して老犬斎と号す
慶長3年(1598)秀吉死去。信包、秀頼の御伽衆に、丹波柏原与えられる。

・与九郎、剃髪して巨哉と号す
・妻・渡辺小大膳の娘と死別。

慶長14年(1609)於振(信長の娘)の前夫・水野忠胤が切腹
慶長17年(1612)?与九郎、於振と再々婚
慶長19年(1614)信包死去
慶長20年(1615)為成、大坂夏の陣参戦

・為成、二男三女を儲ける。長男・一置(孫)を与九郎の家督に戻す。

寛永4年(1627)7/22弟・中川秀休死去
寛永11年(1634)9/26与九郎、京都にて死去。65歳
寛永20年(1643)お振死去

・母お犬の方の菩提寺・竜安寺には、与九郎、秀休、お振の墓が並んである。

佐治与九郎一成の文献は至って少ない。わからない部分が多い。
秀吉にとって都合の悪い部分を削除されているような気がしてならない。

与九郎とお江の結婚の話をすすめたのは、前田玄以とか。
だが、私見ですが、母お犬の介在もあったのでは。
天正10年9月、死期の迫るお犬。見舞いに来る姉お市。
大野御前,大野姫と呼ばれたお犬は、信長の命で再婚したとはいえ、大野に置いていった我が子・与九郎を不憫に思っていた。
さらに3ヶ月前の本能寺の変で信長が死し、後ろ盾をなくした大野佐治家の行く先をも心配していた。
「姉上の娘御をぜひ与九郎に。大野佐治家を何卒お守りくだされ」
無きにしもあらずと思うのだが。
前田玄以は後に秀吉に仕えますが、だからといって秀吉が二人の結婚をすすめたことにはならないですよね。
もともとその結婚に秀吉は本意ではなかったから、後に、事実でない口実をいい、強制的に離縁させたのでは。
私は通説に異を唱えます。(ヨクロー)

 尾崎豊 - I LOVE YOU

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大野佐治家と織田家

織田信長は、知多半島を掌握するためにも佐治をかなり重要視していました。

佐治宗貞(初代大野城主)は、室町時代後期、近江国から移住してきて、三河国守護職一色氏の家臣となる。
やがて一色氏の衰退により大野城を奪って3万石を領します。

その後、知多半島西海岸に勢力を持ち、
佐治水軍の将として伊勢湾全域の海上交通を掌握しました。

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織田信長は、この佐治氏の軍事力に注目する。

2代目・佐治為貞は、桶狭間の戦い(1560)に勝利した織田家の配下に入ることに。
彼は、木下藤吉郎の指揮のもと、清洲城の修復に従事しており、城の出来映えに満足した信長は、佐治氏に城の建築を任せるようになった。

この頃信長は妹お犬の方を、3代目・為興に嫁がせます。
為興は、信長の義理の弟となり、一字を与えられて佐治信方と名乗っている。
一門衆に等しい扱いである。(ヨクロー)

 浪花恋しぐれ 都はるみ・岡千秋

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佐治の菩提寺・斉年寺

ekadanpizu斉年寺は、享禄4年(1531)に
大野城主二代目佐治上野介為貞が亡父宗貞の菩提のため、創建されものです。
ここは寺宝を数多く蔵していて、
中でも国宝「雪舟筆達磨大師二祖慧可断臂図」は教科書に載るほど有名です。
これは享禄5年(1532)に為貞が寄贈したもので、佐治家の繁栄がうかがえます。
同寺は最初は青海山上の大野城内に建立されましたが、
天正15年(1587)3月大野城回録につき、その家臣・粟津九良兵衛によって、
天正16年(1588)今の地(大野町9-139)に易地して再び諸堂を建立されました。

また、佐治家四代の位牌所でもあります。
大野佐治関係の資料は、斉年寺の資料からよるものが多いと思います。
(ヨクロー)

sajihoumei.jpg
 Love theme from Godfather

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お犬の方~大野殿・大野姫~(与九郎の母)

oinufull.jpg
上の肖像画は、佐治与九郎一成の母・お犬の方の像です。
1582年の死の前後に描かれた追慕像で、細川家の菩提寺である京都・龍安寺に所有されてます。
姉のお市に負けないくらいの美人ですね。

父織田信秀。母不詳。兄信長。姉お市。号は大野殿・大野姫、法名は霊光院。
生年不詳。名前が生れ年の干支に由来すると仮定すると1550年生まれ。
兄信長は1534年、姉お市は1547年の生れであり、父信秀は1552年に没しているので、この年号に無理はないかと。
永禄11年(1568)?佐治信方と結婚。
永禄12年(1569) 与九郎出産。その後、次男秀休、長女出産。
天正2年(1574) 夫信方22才の若さで戦死。
天正5年(1577) 細川昭元と再婚。昭元との間には一男二女を儲ける。
天正10年(1582)9/8 死去。33才

お犬の菩提寺・龍安寺には、与九郎、秀休、お振(与九郎の後々妻・信長の娘)の墓が並んである。
yorurohaka.jpg
夫信方の死後、お犬は、信長の命で再婚したとはいえ、大野に置いていった与九郎らのわが子を不憫に思っていた。
私はそう思います。
(ヨクロー)

 また君に恋してる 坂本冬美

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織田信包(お江・与九郎双方の伯父)

ここでは、織田信包(のぶかね)の存在を抜きにしては語れない。
彼は、小谷城落城後のお江を保護し、大野城を追われた与九郎を家臣にした人物なのだ。

天文12年(1543)生まれ。織田信秀の四男(六男?)。兄信長。妹お市。妹お犬。
お江・与九郎の伯父にあたる。
三十郎、信良、信兼、津侍従、老犬斎

nobukane

永禄12年(1569)長野工藤氏(長野氏)に養子入りして伊勢国上野城を居城とする
元亀2年(1571)安濃津城築城開始
天正元年(1573)小谷城落城後、お市と茶々・初・江の3娘を保護
天正5年(1577)織田姓に復帰
天正6年(1578)伊勢安濃津城ほぼ完成
天正8年(1580)伊勢安濃津城入城
天正10年(1582)お市、柴田勝家と再婚、3娘と共に越前国北ノ庄城へ
天正11年(1583)北ノ庄城落城。お市自刃。お江与九郎結婚
天正12年(1584)大野城を追われた与九郎を家臣にする
天正18年(1590)小田原征伐の時に北条氏政・氏直父子の助命を嘆願、秀吉の怒りをかう
文禄3年(1594)改易され近江2万石に移封も、慈雲院に隠棲、老犬斎と号す
慶長3年(1598)秀吉死去。丹波柏原藩主に。御伽衆の一人として秀頼の補佐役に
慶長5年(1600)関が原の戦いに西軍として参戦。敗戦したものの所領は安堵
慶長19年(1614)7/17大坂城内で吐血して急死。大阪冬の陣。家督は3男信則(1599生)が継承

お江が子供の頃過した津の信包の元に、与九郎は大野城落城後逃れている。
大野城落城からお江が再婚するまで、6年ものタイムラグがある。
本当にすぐ離縁させられたのだろうか。
そうでなければ二人の間に子供がいても不思議ではない。
実際、二人の間に子供がいるという説は存在する。
また、信包が慈雲院に隠棲した4年間、与九郎はどこで何をしていたのだろうか。
与九郎も巨哉と号し剃髪している。
憶測だが、ひょっとしてこの時信包に追従し、信包復権しても与九郎はそのままずっと僧侶に?

また、与九郎が子供の頃、津の伯父・信包に会う機会はなかったのだろうか。
大野と津は伊勢湾の対岸で、船で行けば目と鼻の先である。
もし会っていたら、その時、偶然お江と出逢ってなかっただろうか。
信包に訊いてみたい思いにかられる。
(ヨクロー)

 高橋真梨子 for you...

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お江・与九郎の系図

keizihakase.png
お江・与九郎の系図を作ってみました。
ハカセの力作です。
今後の話の展開の参考にしてください。

(ヨクロー)

 Susan Boyle- I dreamed a dream lyrics (CD Album)

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おきた・おぬいの存在

タイトルに書かれた「おきた・おぬい」て誰?
とお思いの方もいらっしゃると思います。
お江・与九郎の間の隠し子とされる二人の娘の名です。
そういう伝承が存在しますので、ここでご紹介します。

まず、
お江は、秀吉によって強制的に与九郎と離縁させられ、達子(さとこ)と名を変え豊臣家に、お江与と名を変え徳川家に嫁入りします。
仮に、この「おきた・おぬい」の存在が事実なら、豊臣家はもとより将軍家にとっても都合が悪く、歴史上に抹殺しようという意識が働いても何の不思議もないと思います。
「将軍御外戚伝」によると、
八郎信方、知多郡大野城主五万石、内室は太閤秀吉の妹南明院なり、
其男与九郎一成は江州小谷城主浅井長政娘即淀君の妹なり、
長久手合戦の時秀吉佐屋川の船を断切りしかば家康殆んど窮したりけるを信方一成父子船を大野より出し之を救ふ、
秀吉後之を聞き、怒って南明院及淀君の妹を奪い取り信方父子を自殺せしめ、佐治を滅す。

とあります。

当ブログの常連さんなら、もうお分かりでしょう。
上記の書かれている内容は、全くもって出鱈目ですよね。
信方の内室は南明院でなく、お犬の方。
信方自身、長久手合戦の10年もの前の長島一向一揆(1574)の戦いで戦死しています。
もちろん、与九郎一成もその時自殺などしてません。江戸時代の1634年までしっかり生きています。
小牧長久手の戦いも調べましたが、「秀吉佐屋川の船を断切りしかば家康殆んど窮したりけるを信方一成父子船を大野より出し之を救ふ」らしき事実はみつかりません。
むしろ、蟹江町史によると、秀吉側と家康側の水軍の名が書かれていて、そこには佐治の名の水軍はいません。
よって、これは事実と異なる全くの創作と言わざるをえません。

(注)南明院とは後に家康に嫁ぐ朝日姫のこと。彼女の前夫は尾張国の農夫で後に秀吉に仕える副田吉成というもので大野佐治家とは全く関係ない人物。

佐治与九郎が小牧長久手の戦いで家康を助け、そのことで秀吉の怒りを買い、お江と強制的に離縁させられたという説は明らかにおかしいのに、どうして、いまだにまかり通っているのでしょうか?
滝田英二氏(東京大学史料編纂所)は「常滑史話索隠」(昭和40年発行)の中で、「秀吉が大野城を攻め滅ぼしたという巷の暴論は問題外」とまで言っています。

1583年お江与九郎婚姻→1584年秀吉によって大野佐治滅亡→即離縁だろう→だから子供はいないだろう。
という説は根底から見直す必要があると思います。
秀吉に滅ぼされた人間が、どうして、秀吉の無二の家臣の信包のもとに逃れるのでしょうか?
将軍家としても、御台所(お江のこと)に隠し子がいたとしたら当然、事実は隠したくなる。
よってあのような創作が生まれたのでは。
こう考えるほうが余程無理がないと思います。
それ以外にも信長公記にもなぜか佐治のことが抜け落ちている(某学芸員)とのこと。

それでは、その隠し子の存在の有無を確かめたいと思います。
まず、「おきた・おぬい」の名はどこからでてきたのでしょうか。(つづく)
(ヨクロー)

 生まれ来る子供たちのために/小田和正

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佐治日向守の説について

asahihime1.jpg前回、南明院こと朝日姫(右写真)の話に少し触れましたが、下記ご指摘を戴きました。
「朝日姫が家康に嫁ぐ前の夫は、副田吉成でなく、『佐治日向守』という人物だという説があります」
はい、確かにその説はありますね。
実は、その説は私も存じていて、それも調べてみました。
佐治日向守の名は「日本外史」に書かれています。
適佐治日向守者、秀吉欲奪之改適於彼也、明日使吉晴親正諭告佐治、佐治勉強聴命遺妻面自殺
内容は前述した「将軍御外戚伝」とほぼ同じ内容です。
しかし、佐治日向守=八郎信方を指すなら、この説は間違いですね。
「日本外史」も「将軍御外戚伝」も、この件については事実と異なっています。

たまたま、大阪新聞 昭和56年8月11日にこんな記事を見つけました。
戦国の女たち <31>富永滋人
秀吉の都合で、三度も結婚させられた女性がいる。
秀吉が保護していた”茶々””はつ””小督(おごう)”の三姉妹の中で、一番早く結婚させられた小督である。相手は尾張大野城主佐治一成という。
ところで、秀吉の妹”あさひ”が長年つれそった夫と離別させられ、家康に嫁いだことはすでに書いた。
そのとき、秀吉に離別を命じられた夫は、副田甚兵衛となっているが、一説に、佐治日向守であったという。この佐治日向守は”あさひ”を離別し、自殺をした。
その嫡男が小督の嫁いだ与九郎一成だとすれば、秀吉の意図みえみえになろう。・・・

(この記事は、この年NHK大河ドラマで「おんな太閤記」を放映していて、その関連記事です)
これを読む限り、佐治日向守なる人物の出所は、まちがいなく「日本外史」・「将軍御外戚伝」でしょう。
であれば、やはり朝日姫の前夫は、佐治日向守の説ではなく副田甚兵衛吉成という説の方が正しいです。
で、言い切っちゃいます。
架空人物・佐治日向守よ、ウィキペディアから去れ~。

朝日姫は、家康懐柔のため、兄秀吉に強制的に前夫・甚兵衛と離縁させられ、家康に嫁ぎます。
その後、甚兵衛と朝日姫は…
この悲しい恋物語はテレビで何回も放映されています。
しかし、お江と与九郎もそれに負けない位の悲恋話であると思います。
来年の大河ドラマでは、どのようなストーリーになるのか興味深々です。
NKH大河のチーフプロデューサー・屋敷陽太郎様、よろしくお願いします。
(ヨクロー)

 ロミオとジュリエット Romeo And Juliet

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tag : 大河ドラマ

おきた・おぬい(2)

と与九郎の間の娘とされる「おきた・おぬい」の伝説。
実は数年前からずっと追っています。
かなりしつこく追っています。
彼女らの存在の有無を確かめることで、おと与九郎との婚姻生活の真実により近づけると思ったからです。
senga.jpg
「おきた・おぬい」の名は、昭和4年発行「大野町史」103ページにあります。
佐治与九郎が大野城が没落してから師崎の千賀家へ厄介になったといふ説がある。
此説に依ると、与九郎にはおきた、おぬいといふ二人の女子があって、千賀家で養育されて居たが、一人は盲女であった。後須佐村に小居を構へて居たから其地の百姓は之を千賀家の主君の娘だと云って今もおきた脇と云って居るといふことである。

と書かれています。
無論これが真実かどうかはわかりません。しかし、確かめる価値はあると思います。
佐治家と千賀家は親戚筋にあたります。
師崎は知多半島の先端。須佐村とはその隣の村で、現在は南知多町豊浜のこと。
昔「おきた脇」て地名は本当にあったのだろうか。もし存在していたら…。
次回(3)は、「おきたおぬい」ホリオコシ奮戦記をお送りいたします。

(参考ー井上靖「佐治与九郎覚え書」・澤田ふじ子「無明記」の本の中にも、「おきた、おぬい」のことが書かれています)

 Listen To What The Man Said - Paul McCartney - Digital Remix
(邦題ーあの娘におせっかい)

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織田長益(有楽斎)

odaurakusai.jpgもう一人、この男を紹介しなければなりませんでした。

天正2年(1574)父信方、長島一向一揆にて戦死した時、与九郎はまだ5才。
佐治水軍を引き継ぐにはあまりに幼すぎる。
だからと言って、信長は佐治水軍を手放す訳にはいかない。
与九郎に早く一人前になってもらわねばならないが、
それまでの補佐役を一体誰に?
その男の名は…

織田長益(おだながます)
織田信長の実弟。織田信秀の十一男。源五・源吾・有楽斎如庵・有楽・有楽斎と称される。

1547年(天文16)生まれ

宇治城(津島市宇治町)に居城→蟹江城に居城

1574(天正2)大野城主佐治信方死去。信長の命により知多郡大野城に居城(入城時期は?)
1577(天正5)与九郎の母・お犬、細川昭元に再嫁。
1582(天正10)本能寺の変
1584(天正12)小牧長久手の戦い。大野城主佐治家滅亡。大草城築城開始
1590(天正18)主君信雄改易に伴い、摂津国嶋下郡味舌2000石に移封。大草城は完成前に廃城。
1600(慶長5)関が原の戦(東軍)の功績により大和国3万2000石拝領
1621(元和7)京都で死去。享年75。

織田長益は、信包同様、お・与九郎の叔父にあたります。
年譜を辿れば、佐治家滅亡の時にも大野にいたことになります。
1584(天正12)3月、小牧長久手の戦いの発端となった岡田事件が起こる。
岡田事件とは、織田信雄が、秀吉に内通した疑いにより重臣の津川・岡田重孝・浅井長時3人を殺害し、織田・徳川連合軍が秀吉との戦闘状態に入るきっかけとなる事件です。
その後、連合軍は、岡田の居城である星崎城を陥落させる。
その属城とされていた大野城も同時に攻めたのでは、というのが滝田英二氏説。
伝承では、攻めたのは水野とも戸田とも。どちらも家康方である。
秀吉の養女おを娶ったことで佐治にも秀吉内通の疑いをもたれたのか?
亡き信長の子である主君信雄が、結果的に、佐治水軍に見切りをつけたことになる。
大野城落城時、長益はどの様な行動をとったのでしょうか。
幼い夫婦お・与九郎にとって、叔父・長益はいったい敵か味方か?

ただ言える事は、この時に、これから佐治水軍の将として活躍するだろう機会を与九郎は失ってしまったということだ。
(ヨクロー)

 フランク永井 有楽町で逢いましょう 1974
(有楽町の地名は織田有楽の名から付けられたものです)

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幼少・与九郎の後見役は

幼少・与九郎を補佐したのは誰?
もう一度、検証してみます。
少しマニアックな話になりますが、ビギナーの方、少々ご勘弁ください。

まずこの書状をご覧ください。
「天正2年(1574)、織田信長、尾張国大野城主佐治為平に、遠国在陣のための兵糧を尾張国知多郡内の商人に申しつけ、商売船での運搬を命じる」
愛知県史の鋼文年表で紹介されていました。事実でしょう。
ここにでてくる大野城主佐治為平とは?
尾張群書系図部集を紐解くと、為平とは与九郎の祖父・二代大野城主佐治為貞の別名になっています。
三代信方はこの年に戦死しています。
おそらく、この文面をもとに、「祖父・為貞が健在で、幼少の与九郎を補佐した」という説が出たのはないのでしょうか?
しかし、為貞は1556年(弘治2)4月29日に亡くなっています。法名前上州代守光国院殿心屋動印大居士。
よってこの説はありえない。
(冒頭の文面は6月5日の日付。信方が戦死したのは9月29日。よって、為平とは信方のことではないでしょうか?)

次に千賀系譜。
「天正二戌年春 月日不分明 織田有楽、知多郡領地致され候に付き、(師崎千賀家)本領の儀、替地相成る可き処、権現様(家康)より高木筑後を以て御理仰せ入れられ本領安堵仕り候」
これを要約すると「天正2年春のいつぞやの日に織田有楽が知多郡の領地を任され、師崎の地もそうなるところ、家康のおかげで…師崎千賀家は安泰であった」
春というのが少しひっかかりますが、これを信じる限り、信方の死後まもなく、有楽(長益)は信長の命で知多郡を任せれれたということに。
そしてその拠点は、当時知多郡で一番栄えていた地であり、主を亡くした城である大野城と考えるのが自然かと。

あと、するどいコメントをいただきました林秀貞の可能性について。(コメント感謝してます)
彼については大野佐治につながる文献を私は未だ探しえていない。
佐治水軍は、織田一門扱いされてたため、総称して北畠水軍の中に組み込まれていたという。
長島一向一揆の戦いの時、織田家の第一家老(当時信長の後見役)である林秀貞が佐治水軍を含む織田方を指揮してたとしても不思議ではない。(参考:秀貞の子・通政は、信方同様にこの戦いで討死している)
しかし、これだけの情報では、大野城主になりうるための否定か肯定かの判断はできない。
ただ、林秀貞は天正8年(1580年)8月、信長から過去の信行擁立の謀反の罪を問われて追放されているので、それ以降は代わりの別の者が大野にこなければならなくなってくる。また厄介だ。

この二人のどちらかだと仮定しても、どちらも信長の子・信忠付きになっているから、新しくきた武将はたいして大野城(又は旧大草城)にいなかったことになる。
結局のところ、名目は誰にしろ、実質的には、佐治の親戚・家臣たちが与九郎を育て補佐したのではなかろうか。
佐治家を本気で守ろうとするのは彼らしかいない。
いや、もう一人いた。
その者とは、
信方の三回忌を終え、信長の命で、大野を去り、細川家に再嫁することになる与九郎の母・大野姫ことお犬。
三人の幼い我が子達、与九郎・熊乃丞(秀休)・お豊(?)らとの別れ。
悲しくない筈はない。後ろ髪を引かれる想いだっただろう。
そして、いずれ大野は織田長益のものとなり、佐治家は追放されるのではと一番危惧していたのは、やはり信長の性格を知る彼女。
八歳になる与九郎に母・お犬は別れ際に何を告げたのだろうか。
信長にも長益にも大野を去り際に、大野姫・お犬は何を言い残したのだろうか。
(ヨクロー)

 木村カエラ  Butterfly LIVE

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蟹江の合戦

kaniesiroato.jpgもう一度、
秀吉佐屋川の船を断切りしかば家康殆んど窮したりけるを信方一成父子船を大野より出し之を救ふ(将軍御外戚伝)らしき事実が
本当にあったのか、「蟹の合戦」をおさらいしてみます。
信方一成父子というのは論外ですが、少なくとも、一成だけでも家康を助けたかどうか。

の合戦とは、
天正12年(1584年)6月に起こった尾張南西部における羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。主に蟹城における篭城戦であった。
天正12年6月16日
前田種定は、秀吉陣営の調略を受け入れる。
同時に種定の弟・前田長俊の守る下市場城及び、長男・前田長種の守る前田城も秀吉陣営となったが、大野城の山口重政は母親を人質に取られているにも関わらず調略に応じなかった為、滝川・九鬼勢は城攻めを行い、陥落寸前まで追い込んだ。
同日、蟹城落城の報せを聞いた家康・信雄は大軍を率いて蟹城に急行、陸路を断たれた滝川勢は海上経由で蟹城に、九鬼勢は下市場城にそれぞれ逃れ篭城。家康は大野城に入城した。
(ウキペディアから引用)

この合戦を調べるには、武田茂敬『蟹江城合戦物語』がオススメ。
大変詳しく書かれていて、色んな武将の名が書かれてますが、一字たりとも佐治の名はない。
古文書なら、太閤記・勢州軍記・尾州表一戦記・譜牒余禄・寛永暑家系図伝に蟹江の合戦が書かれているが、一切佐治の名は見当たらない。
また、蟹江町史に紹介されている「蟹江合戦ー小牧長久手合戦のうちー」(P113~163)も同様、佐治の名はない。
それどころか、P116。
4月…当時、徳川の水軍は知多郡大野(常滑市大野)に集結していた。
紀伊国牟婁郡向井(三重県尾鷲市向井)の出身向井兵頭助正綱(忠安)・伊勢小浜(鳥羽市小浜)の出身小浜民部左衛門尉景隆・伊勢千賀(鳥羽市千賀)の出身千賀孫兵衛重親や、もと武田水軍の伊豆国出身である間宮造酒之丞信高などである

知多郡大野は佐治水軍の拠点である。それなのに佐治の名がないではないか。
やはり滝田英二氏説の通り、3月の岡田事件の時に、佐治は大野城を追われたというのが妥当では…。

結論、
佐治与九郎一成は蟹江の合戦に参戦しておらず、
家康に舟を差し出して助けたことで、そのことを怒り秀吉はお江と一成を強制的に離縁させた…
という話は、やはり事実ではないとしか言いようがない。
また、ただの日向守と言えばまずは明智光秀のことであり、
佐治日向守という存在しない人物は、頭首に謀反を起こした象徴として、その名で創作されたものではないだろうか。
(ヨクロー)

 別れの予感 テレサ・テン

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「新正名NO.29」(昭和3年発行)より

sanojozo.jpg大野町の老人会の名を「明生(めいせい)会」という。
なぜ、「明生会」というと、昭和初期に「正名(せいめい)会」という町の有識者たちが侃々諤々話し合っている会があり、その会がその後発展解消し、老人会となり、正名の名をひっくり返し、明るく生きましょうということでそう名付けられたそうです。(高須孝さん談)

その正名会には、「新正名」という機関紙があった。
発行人は、佐野重造氏。大野町史(S4発行)を編纂した人だ。
昭和初期、彼も佐治没落の真相を追っていた。
色んな文献を漁り、所々足を運び、調べれば調べるほど、矛盾点にぶち当たり悩んでいた。
当時は、ネットもなく、今より文献も少なく、情報をつかみ精査するのは至極大変。
交通網だって発達していない。
そんな彼も、わざわざ蟹まで行って調べにいっている。
そして、蟹と佐治とが繋がる確証が何も得られず、非常に残念がっている。

しかし、天国にいる佐野さん、残念がる必要はありませんよ。
何の繋がりもないことが、確証なのだから。
あなたの行動は決してムダではなかったのです。

以下、「新正名NO.29」(昭和3年7月1日発行)より
geta.jpg五日、端午の節句で、五黄会の連中はギマを釣りに出掛けると云って自分も誘はれてゐたが朝は雨になつてゐたから、自分は高足駄をつっかけてぶらつと家を出た。
に行つて見る気になる…佐治没落の様子が多少解らないかと思つて。
知多郡史では佐治の没落は天正十二年小牧長久手の役蟹戦争で、佐治は敵である家康を大野船で逃した為め秀吉の不興を蒙り、家康からは二股膏薬とにらまれたのが佐治没落の原因であるだといふのだ。
の役場に訪れる。其処には今様犒保巳一・慶春といふ按摩さんが綴った町史がある。町長は一向此方面の趣味がないやうであつたから、兎も角按摩慶春さんを訪れる。
慶春さんは一人の患者を揉みながら話しかけた「私はただ好きなだけで学問もありません。学校の先生や皆さんにお世話をかけて、それでも丁度三年ばかりかかりました」と町史の骨を折れた時のことを愉快さうに物語る。町史は謄写版印刷であつた。
「私は、あれを皆暗記(ソラ)でやったので、間違いもあるだろうと思つて居りますが、それでも蟹の戦争のことはいろいろの本から抜書さしてもらつて大分集めたつもりです」と手さぐりで箪笥から参考書類を出して見せるのであつた。
「蟹江城主信正は北畠氏の家来で、天正十年に城主となつたのだが、天正十二年に信雄の命に依り兵五千を率ひて亀山城を攻めることになつたとき、其留守番に前田種利といふのが居た。種利は秀吉方の滝川一益の親戚になるので、之を口説き落して秀吉方にして仕舞ふ。処が蟹江城の殆ど隣接して佐屋川の西側に大野城がある。此城主は山口長十郎重正と云つた。滝川一益は之をも説いて身方にしようと努めたが応じなかつたので戦争が開始された。家康は信雄方であつたが此戦争に於て随分苦戦した。天正十二年六月十六日蟹江城の兵は兵船に乗つて佐屋川を剃り大野城を攻める時に、大野の兵の為に船二艘を焼かれる……」
「其戦争で大野といふのは勿論、大野城主重正の方を指すに違ひないが、知多郡宮山城主佐治与九郎といふものが加つてゐたとか、大野船に依つて家康を逃すとかいふことがあつたかしら?」
「それは一向知りません」
佐屋川につないだ大野船に家康が逃げ込んだことがあつたにした処が慶春さんの話しで見ると一向差支がないことになる。
「大野船?」(中略)
寳(たから)の山に入り乍(なが)らといふ感じがしながら、之れといふ確証を得ずに帰らねばならぬのは残念でたまらなかつた。

 (ヨクロー)

 Raindrops Keep Fallin' On My Head  BJ Thomas

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おきたおぬいホリオコシ奮戦記 1

おきたおぬいを調べよう!

与九郎とおの間には「おきた・おぬい」という二人の娘がいたという伝説。
佐治与九郎が大野城が没落してから師崎の千賀家へ厄介になったといふ説がある。
此説に依ると、与九郎にはおきた、おぬいといふ二人の女子があって、千賀家で養育されて居たが、一人は盲女であった。後須佐村に小居を構へて居たから其地の百姓は之を千賀家の主君の娘だと云って今もおきた脇と云って居るといふことである。
(「大野町史」昭和4年発行より)

ある日、ハカセとヨクローとの会話。
「ハカセ、おきたおぬい伝説は本当でしょうか?」
「実は、もう30年も前の話だが、大野の歴史に詳しいAさんが、師崎のある南知多まで行って『おきた脇』の場所を探しに行った。そして、ある日『わかったぞー』て言っとった」
「どこだったんですか」
「んー、その時儂は特に歴史に興味がなくて、よく聞かなんだ。しまったなあ」
「今Aさんは?」
「とうに亡くなったよ」
「残念」
二人は目と目があった。あたかもアイコンタクトをとってるように。
「ヨクロー君、南知多に行って調べにいこうか」
「いきましょう、いきましょう」
二人はヨクローの車でいざ南知多へ。
南知多は知多半島の最先端。温暖で回りは海で囲まれていて実にいい所だ。
例えるなら、米国フロリダ半島のマイアミビーチのような所かな。行った事ないけど。
気分良くドライブ。
「ハカセ、まずどこへ行けばいいんですかね」
「南知多の町役場に行こう。そこで聞けばすぐわかるんじゃないか」
「なるほど」
もし私たちの手でおきたおぬいの存在が証明できたら、これはすごいことでは。
私は胸をときめかしながら、アクセルを踏む。
しかし、ある重要なことに気がつく。
「ちょっと、ハカセ、今日は日曜っすよ。町役場は休みじゃ…」
前途多難である。
(つづく)


Miami Sound Machine Conga

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おきたおぬいホリオコシ奮戦記 2

日曜の町役場にて

「ハカセ、日曜は町役場休みじゃ…」
「大丈夫、必ず当直の職員がいるから」
「そっかあ」

町役場は裏口から入れるようになっていた。
ハカセの言う通り、ガランととした役場には一人の若い男性職員がいた。
「あのう、すみません」
「はい。税務相談ですか?」
彼は税務課の席に座っていた。
「いえ」
我々はお江と与九郎との間に隠し子がいるかかどうか調べていて、まず、その娘の名をとった「おきた脇」という地名が過去に南知多にあるかどうかを尋ねに来たことを伝えた。
「うーん」彼は困った顔をして「少しお待ち下さい。詳しい者に聞いてみます」
といって電話をかける。
「もしもし、よかった、いらっしゃったんですね。実はですね…」
彼は我々の質問を相手に丁寧に伝える、「…はあ、そうですか。わかりました」
意外と早く回答がきた。
受話器を切るなり彼は答えた。
「えー、おきた脇という地名はないそうです」
「昭和初期の頃とか、それ以前にもでしょうか?」
「はい、今も昔もそのような地名はどこにもありませんとのことです」
そんな~。我々は落胆した。じゃあ大野町史のあの一節は何なのだ。
「ただ、もしよかったら、おもしろい情報があるから来てくださいということです」
「え?」
「南知多町郷土資料館の館長のYまで尋ねてください。場所おわかりですか?」
行くっきゃない。ハカセと私はまたもアイコンタクト。
いい職員さんに巡り合えた。
「ありがとうございます」
彼は笑顔でこたえた。
(ヨクロー)


Never on Sunday(日曜はダメよ)-Melina Mercouri

おきたおぬいホリオコシ奮戦記 3

鯨と「みなみ」とY館長

南知多町郷土資料館は、旧愛知県立内海高校の敷地内にある。
運動場では地元の子供達がサッカーのゲームをしていた。
体育館の横に、一教室分くらいの大きさの平屋の建屋があるが、そこに郷土資料館の看板が掛けられてる。
入ってみたが、人っ子一人いない。
中は資料館というより、図書館だ。
事務室に声を掛けてみたが返事がない。
仕方ないから、外で草刈していたおじさんに訊いててみる。
おじさんは麦藁帽子に上半身下着姿、首にはタオルを掛け、汗をだらだら流して、イカツイ労務者風の人だった。シルバーの人かな?
「あのう、Y館長はどちらにお見えかご存知でしょうか」
「おぬしらか、おさんのことを調べとる者は?まあ上がれ」
彼がYさんだった。
再び館内に。我々は事務室に招かれた。
「おぬしらは大野から来られたのか。ワシは師崎に生まれ、南知多の小中学校の教師を30年以上勤めとったが、数年前にここに飛ばされ、来年はお払い箱(定年退職)になる身だ。ワッハハ」
「早速ですが、『おきた脇』という地名は南知多には本当にないのでしょうか?」
私が切り出す。
「しつこいのう、おぬしら。あったら、ワシがとっくに見つけとる。ところで、日本で最初の捕鯨はここ南知多だということは知ってるか?」
「いえ」
Yさんは延々と捕鯨の歴史を話し出す。戸時代にはここ南知多では結構捕鯨が盛んだったそうだ。
大野・横須賀あたりでも捕鯨の記録はあるとのこと。
ハカセは釣りが趣味で結構その話に興味を示す。
「大野の漁師の家にも鯨を捕らえる銛(もり)がありましたよ」とか
「信長が朝廷に鯨肉を献上した記録があるけど、たぶんここらで捕まえた鯨でしょうなあ」とか
ハカセは博学である。無学な私はただ黙って聞いてるだけ。
しかし、それはそれですごいことだが、我々は鯨の話を訊きに来たのではないのだ。
ひょっとして、おもしろい情報って、「日本最初の捕鯨は南知多である」てことを言いたかったてこと?
「実は今の話は、この「みなみ」という機関紙の最新号にわしが執筆しとる。500円だ。どうだ買わんか」
ハカセは年金受給者。500円でも大事だ。ハカセは困惑している。
「僕が買います」
半切れ状態の私は500円玉を彼に投げつけてやりたい気持ちだった。
「すまんのう、資金が足りなくてなあ」
500円玉を渡すと、彼は私に「みなみ」を2部くれた。
「1部でいいんですけど」
「もう1冊はただでくれてやる。25年前の「みなみ」だ。おぬしが知りたいことが載ってる」
「えっ?」
反抗的だった私の目つきを彼の眼光が鋭く睨み返す。ものすごいキャラの彼は、一体何者?
(ヨクロー)


Boys Town Gang - Can't Take My Eyes Off Of You

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おきたおぬいホリオコシ奮戦記 4

Y説



「まず、結論から言おう。『おきた脇』とは内海の『北脇』のことだと、わしは睨んどる」
「なるほどお」私は思わず叫ぶ。
内海は、大野佐治の親戚、内海佐治のいる岡部城がある。
彼は、おきたおぬいは、千賀家でなく内海佐治家に預けられたと言いたいのだ。
「おぬし、井上靖の佐治与九郎覚書を読んだことがあるか?」
「ええ、まあ」
「なら話が早い。それには天正14年におさんは佐治家に嫁に来たとされている。それから二人の娘が生まれて預けるまで早くて3~4年位はかかろう。しかし、天正18年に千賀は、家康の関東移封に伴い相模国三浦半島に移住しとる。娘を引き取る状況ではなかろう。井上靖がどう調べたか知らんが、内海佐治家と取り間違えた可能性もある」
「そのことがこの25年前の『みなみ』に書かれているんですね」
「ハハハ、そうじゃない。当時内海小に赴任したばかりの新米教師のわしは、内海の地形やら地名の由来を調べとった。そのことが書かれとるだけだ。その中で、どうしても府に落ちない地名があった。それが『北脇』だった。普通、脇のつく地名は山と山に挟まれたところにある。しかし、そこの周りは平坦だ。昔はそういう地形なのかと思ったがそうでもない。周辺に脇と関係するものがあるかと思ったが何もない。わしはそこに住んでいる老人に訊いてみた。そうしたら『北脇』という地名は昔はあちらの方だったと指をさしたのだ。そこは岡部城の近くの山の方向だった。クロゼ?クロデ?よう聞き取れなかったがそんな地名だったとか。地名が移動した理由もよくわからん。それだけだ。その時は『おきた脇』のことは知らなかった。後で知った。ぞこへ行ってみなさい。何かわかるかもしれん」
ハカセと私はこの日三度目のアイコンタクト。
「ハカセ、時間いいですか?」
「行くしかなかろう」
「貴重な話ありがとうございました」
我々は『おきた脇』が書かれている文献名を彼に教えた。
「そうか、今度見てみよう。また、いつでも来なさい」
とりあえず、Yさんの説に乗っかろう。
彼は淋しがり屋さんにちがいない。
人を外見で判断してはいけない。
つくづく思った。
(ヨクロー)


ZONE - secret base ~君がくれたもの~

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プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

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