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江研究、再び

大河「江」が終わり、一年間限定の歴史資料館も終了して数か月が経ちました。
私、現在気が抜けたような状態です。
江の次は何をテーマに郷土史を勉強しようか?

後藤新平・青松葉事件・廻船問屋薩摩屋・一口香・大野鍛冶etc
んー

色々考えたけど、江研究関連でまだやり残したことが多い。

江の出生時期。
江の幼少時代。
なぜ、浅井三姉妹の三女・江から結婚したのか。
大野城落城の真相。
佐治一成との離縁の真相とその時期。
おきたおぬいの二人の娘の有無。
江の再婚時期、等々

それなりに調べたものもあるけど、
確証まで得られていないので発表しなかったのもある。

多くの反論受けるの怖いけど、他の人も勉強された上でおっしゃるんだから、
逆に勉強させてもらえると思えばいい。

大河終了したことを、研究の区切りにする必要もない。
大河のかなり前からやっていることじゃないか。

ということで、今後もちょくちょく江研究関連をアップします。

たまに堅い話になっちゃいますが、
堪忍してくださいね、YAMAさん。
(ヨクロー)

yama1.jpg
YAMAさんからの頂き物です。あいち戦国姫隊も継続で~す(^_^)v
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江の出生時期1

の出生年は天正元年(1573年)というのが通説とされている。
これは、「以貴小伝 」に書かれている、没年(寛永3年)から享年54才を逆算して出した年がそれだからである。
当然、ただ年を逆算しただけのものであるから、出生月まではわかっていない。

この年九月に、小谷城は落城し、父・浅井長政は自刃。
その後、母と娘たちは岐阜に逃れる。

よって、の出生地は長浜(小谷城)か岐阜かで議論が分かれることになる。
NHK大河ドラマでは、小谷城で産まれてましたね。こちらが有力なのかな?
しかし、去年、の生誕は小谷城落城後で出生地は岐阜であるという記事が新聞に掲載されていました。
それは、
「岐阜志略」という地誌に、「市は長政の自決後、身重のまま岐阜に逃れ、女子を出産した。女子はその後の崇源院」という趣旨の記述があったという内容です。
(ちなみに、私のブロ友さんは、以前からこの資料の存在を知っていましたが…)
ただ、戸時代に書かれた太閤記などの軍記物はすべて「三姉妹で長浜から逃げた」とも書かれています。

皆さんは、いかがお考えになりますか?

なーんて、シメはしません。まだ話は終わっていません。

実は私、「は天正元年生まれ」自体を強く疑問視しています。
なぜなら、その年の5月、の母・市は男の子を産んでいるという資料が存在するからです。
(つづく)

(ヨクロー)

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江の出生時期2

が産まれた年(天正元年)とされる五月、の母・市は男の子を産んだ。
そのことは「浅井三代記」に記されている。

此時御子五人有、内三人ハ女子、二人は男子ナリ、嫡男ヲ萬福丸ト申ケルヲ(中略)、壹人ノ男子ハ、当年五月に生レ給ヒシヲ、是ハ当国福田寺二トラセヨトテ、乳人二小川伝四郎ト中嶋左近アヒソエ、福田寺ノ本ヘシノビ落、盧原二舟ヲウカヘシノビテコソハ置二ケル、姫君三人・北方二女佐ノ臣藤掛参河守ヲ相ソエ、信長ノ許へ被送ケル

彼の名は、系図でみると、萬寿丸・長秀・乙若丸。(以下、萬寿丸と呼ぶ)
いくつかある系図の中で、一つだけ、彼の名がない系図がある。
しかし、それも、嫡男の萬福丸の欄をみると、「…父自殺時僅一歳…」とある。萬福丸は当時十歳。明らかに混同している。
萬寿丸は存在すると考えるのがごく普通ではないでしょうか。
(ただの伝承であるとおっしゃる学者さんもいらっしゃるそうですが、その根拠を知りたいです)

ここで、と萬寿丸、双方とも天正元年生まれだいう可能性はないかと考えてみる。
…二人は双子?
文献を見る限り、それを匂わす文章は一切読み取れない。
…萬寿丸は側室の子?
長政には八重の方という側室がひとりいる。
天正元年の前の年に、彼女は長明(七郎)という名の男の子を産んでいます。
小谷城落城後、彼女はその子と一緒に逃れ、後に尾張牛山村(現・愛知県春日井市牛山町)に移住しています。
一方、萬寿丸の方は家臣に保護され、後に福田寺の住職になっています。
このような状況を見て、萬寿丸も彼女の子だとは考えにくい。

やはり、萬寿丸が天正元年生まれなら、も天正元年生まれだとは言い難い。

であるならば、の出生時期は、いつか。
初が産まれて十か月後から萬寿丸が産まれる十か月前の間の期間。
若しくは、萬寿丸が産まれてから父浅井長政が自刃した期間の十か月後。
西暦でいえば、1571~1572年か、1574年。
後者の可能性はゼロではないが、
母・市は多産タイプ。バースコントロールする理由もない。
よって、前者の年の方が有力か。

それでは「以貴小伝 」の享年がまちがいということになるが…。
しかし、著者がまちがえたのではなく、(若しくは秀吉)が、再再婚の秀忠との婚姻の際、あまりの年の差のため、年を偽り徳川家に申告したとすれば、その著書の信憑性を欠くものではない。
これは、瀧田英二氏も言っていることである。

初婚も、夫佐治一成16歳・妻江13~14歳なら、当時なんら無理のない婚礼である。

諸説は多々あると思いますが、
この説もかなりつっこんで勉強した成果のつもりです。

(ヨクロー)

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霊光院像の掛軸の文字

yanaoinu1.jpg左の写真は、 大野城に展示されている霊光院(お犬の方=佐治一成の母)像の掛け軸の写真です。
いつも思うのですが、ガラスに光が反射してなかなかうまく撮れません。
ブロ友のyamaさんからの頂きました。いつも有難うございます。

戦国一美女といわれている姉・お市の方より彼女の方が美人~(私見です)
まあ、それはいいとして、像の上には、文字が書かれています。 
「何て書かれてるのだろう?」
以前から、疑問に思っていました。

そこで、今回、古文書訳に堪能な住職のHさんにお願いして、訳してもらいました。
後でわかったのですが、あまり使わない難解な漢字が多く、大変苦労されたとのこと。
それでも、色々調べたりして頑張って訳して頂きました。
安易にお願いして、大変恐縮しました。

霊光院殿契庵線晴公大禅定尼肖像讃

生尾州織田家、為塞外副将之貴春、據京洛細川室、故天下管領之尊堂、綺羅叢裡芳聲美誉
綿綉堆中濃抹淡粧、鬒髪紅朕餘嬋媚、明鏡照心破冥途幽暗、蛾眉翆黛太溝酒、念珠合掌祈家運延長、
政徳治國難同姙姒、寿夭在天仏異彭殤、楊妃観音現身、認蓬嶋到日域、茜施弥勅応化、将兜卒擬洛陽、
箇々圓成實性、塵々本有故郷、雨打梨花蛱蝶飛、當著晴女離魂話、風吹柳絮毛毬走、的得勝光度脱祥、
了知四大假合、会万法無常、令子環侍訴天、捨父母則無可鳴○、類親輻湊伏地、感慈愛則豈不奉□、
楷立化城修證果、創建祀院穪霊光、聲花秀整、亦葉茂□、夕陽捻在海○、咄咄



大体の意味は、お犬の方を称賛している内容です。

以下

尾張の国織田家に生まれ、国を離れ副将に仕え、さらに都に上がって細川氏の夫人となった。
天下管領の家、映画の一族の内で、声の美しいこと誉れ高い。
美しい着物に身を包み、美麗な化粧を施し、黒髪、紅色の頬は美しく、身のこなしは艶やかで柔らかい。
心は鏡のように清らかで、暗い心を明るく照らしてくれる。
細くみどり色の眉は、はなはだ○酒である。
仏教に帰依して、家の安泰、国家の平和を祈念していた。
同族の姉妹の中で寿命は短く、天に召されたとはいうものの、命の長短というものは本質的なことではない。まさに楊貴妃観音のうつし身であり、蓬莱山から日本にやって来て、弥勒の応化を施している。
弥勒の兜率天浄土を京都になぞらえている。

この夫人は管領細川氏の夫人で、平右相国小松の遠裔である。短命にして亡くなり、遺された子どもたちは母を哀慕し、その優しい姿を絵に描いて賛を求めてきた。
その絵姿は生きているかのようで、かつて京都の女性の中に聖観音がいると言われていたが、この人のことを言うのであろう。

佐治与九郎の母は、実に美しい方だった。

(ヨクロー)

柏原藩の筆頭家老・佐治与九郎

大野城を追われ、伊勢安濃津城の伯父・織田信包の下に逃れた佐治与九郎は、その後どうなったのでしょうか?

まず、信包の足取りを追ってみると、
文禄3年(1594)伊勢を改易され近江2万石に移封も慈雲院に隠棲、老犬斎と号す。
慶長3年(1598)秀吉死去。丹波柏原藩主に。御伽衆の一人として秀頼の補佐役に
慶長5年(1600)関が原の戦いに西軍として参戦。敗戦したものの所領は安堵
慶長19年(1614)7/17大坂城内で吐血して急死。大阪冬の陣。家督は3男信則(1599生)が継承

また、与九郎の子・佐治為成は、柏原藩信包家臣として大坂の陣に参戦している事実があり、
与九郎は、信包の下、家臣としてずっと行動を共にしてきたと考えるのが自然と思われる。

そして、伊勢・近江での与九郎の消息はまだよくわかりませんが、丹波柏原での彼の消息は、今回調査により明るいものになりました。私、GWを使って、兵庫県丹波市柏原まで行ってきました。

odasandaiki2.jpg


上の資料は、丹波柏原にある織田信包の菩提寺・成徳寺の資料「織田三代記」の写しです。
最初に書かれている津田宗助とは、信長の末弟・津田長利の子孫で、家柄上席次は一番上に書かれていますが、石高が三百五十石と少ない。
二列目に書かれている佐治与右エ門とは与九郎の孫一置で、石高千三百石と一番高く、実質の筆頭家老です。

筆頭家老佐治陣屋跡

今回の調査、柏原歴史の会のTさんに大変お世話になりました。
柏原の街並みも案内して頂きました。
写真の柏原赤十字病院は、佐治陣屋があった場所です。
ここに与九郎が住んでいたんですね。
Tさんは、とてもお優しい方で、感謝の意に耐えませんでした。
私、柏原の町が好きになりました。
(ヨクロー)

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地方公務員(?)の与九郎

「与九郎が柏原藩の家老だという何か証拠になるような文書とかありますか?」の私の問いに、
Tさんが見せていただいたのがこの文書です。
kaibarahanmonsyo.jpg

相極請所新開畑年貢之事
一.朝坂村之とち嶋新開畠三反之所
年貢之儀当子歳より来る寅歳
迄三ヵ年之間鍬下指置卯年ヨリ
大豆四斗五升宛毎年納所申す筈に
相極候 此新開畑に付き諸役之儀令
免除者也 依如件
長野藤左衛門 花押
正保四年子三月五日
佐治与右衛門 花押
偏多村 
角兵衛殿
                  参

と書いてあります。
意味は、

新しく開発した畑の年貢の取り決め。
朝坂村の土地に新しく開いた畑三反に対し、今年(正保4年子年)から三年間(寅年まで)年貢は取り立てない。
四年後の卯年から大豆四斗五升を毎年納める事を取り決める。この新開畑に対し、他の税の取り立ては行わない。このように取り決める。
(正保四年―1647年、当時、将軍は徳川家光、天皇は後明正天皇
長野藤左衛門―柏原藩次席家老、佐治与右衛門―柏原藩筆頭家老・佐治与九郎の孫・一置、偏多村 角兵衛―偏多村の庄屋か? )

実際は、与九郎の文書ではないですが、それでも十分証拠になりうる資料ですね。
Tさん、ありがとうございます。

江戸時代初期には、佐治川の治水工事や幕府から篠山城や姫路城・大阪城の改築を命じられ、柏原藩は財政的に困窮して、与九郎は大変苦労したそうです。(Tさんの話から)
信包は殆ど大阪城に常駐。柏原藩の治政を中心に執り行っていたのは間違いなく家老の佐治与九郎でしょう。
江戸で継子作りに励む「江」。その時、与九郎は地方公務員として頑張っていたんですね。

次回ですが、与九郎以後の佐治の系図を確認させて頂きたいと思います。

(ヨクロー)

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与九郎の子孫

以前のカテゴリと一部重複しますが、改めて説明します。

与九郎には一男三女の子がいます。
長男の名は為成。彼は、大阪の陣参戦し、その後、子のいない与九郎の弟・中川秀休の養子になっています。
そして、為成は二男三女を儲け、次男の成正が中川家の跡を、長男・一置が佐治家の跡を取ることになります。
この与九郎の孫にあたる一置が、柏原藩筆頭家老、千三百石を給したる「佐治与右ェ門」です。

一置以後は、柏原のTさんに教えていただきました。
一置は四男を儲けます。
長男・小源太(又は左源太)は早世。
次男・為貞は、柏原藩廃藩後、讃岐丸亀京極家に仕官。
三男・置弘は、叔父・中川成正の養子となり、近江分部家の家老になる。
四男・功庵、この方の子孫は柏原で、現在、中川の姓を名乗っているそうです。但し、正覚寺過去帳には功庵とその子・孝庵の二人については記述がなく、孫にあたる佐治秀伯以降は記述あり、途中内堀家から、婿養子をもらい、中川家として中興開祖しました。(中川家系譜より)

信包が立藩した柏原藩は、三代信勝に継子がなく、慶安3年(1650年)5月17日に廃藩の憂き目に会います。

(その後の柏原は、45年間、天領になり、元禄8年(1695年)からは織田信雄の子孫にあたる信休が藩主となり、以後その子孫が代々藩主として藩を治め、明治維新を迎える)

廃藩のため、家老職を失った与九郎の孫・一置とひ孫・為貞の二人は再就職活動を余儀なくされます。
孫・一置は、浪人のまま、江戸で死去。享年41歳、
ひ孫・為貞は、江の姉・初の嫁入り先であった京極家に仕える。ん?

この再就職活動にはどんなストーリーがあったのでしょうか。

(ヨクロー)

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主君・信包の死と与九郎

柏原藩の立藩は慶長3年(1598年)6月、豊臣秀吉が亡くなる2か月前のことです。
藩主の織田信包は、秀頼の御伽衆として、殆ど大坂城に常駐しており、藩政は与九郎をはじめとする家老達が行っていたことになります。
sajikazunari.jpg
信包、慶長19年(1614年)7月17日、大坂冬の陣直前に大坂城内で吐血して急死。
信包の墓は京都龍安寺の塔頭西源院に。龍安寺は、与九郎の母・お犬の再嫁先である細川家の菩提寺。
与九郎が信包の墓建立に全く関係していなかったというのは考えにくい。
与九郎は晩年、巨哉という名の僧侶になっています。いつ僧侶になったのか?
主君・信包を失ったこのタイミングであっても何ら違和感は感じない。

戦国の時代を生きた武士という人生に自ら定年を迎えた。
与九郎はそんな思いではなかっただろうか。
無論、想像ですが…。

大坂の陣を境に、戦国の時代はやっと終焉を迎える。
そして、江が再々嫁した徳川家の世が続くことになる。

(ヨクロー)

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柏原藩廃藩で家臣達は・・・

kaibaraezu2.jpg江戸時代初期、幕府は専制的な武断政治を行っていました。
家の断絶を防ぐための末期養子も認められず、嗣子がないために取り潰される大名家が続出。それらの大名家に仕えていた武士たちは再仕官の道は非常に厳しく、浪人となる者が増え、社会問題化しました。

柏原藩も例外ではなかった。
信包の孫で第3代藩主・織田信勝は慶安3年(1650年)5月17日に28歳で死去してしまう。子供は3人の娘だけで息子がいなかった。だが、一説には、死亡時に側室が妊娠しており、名門織田家ということで男子出生の場合は家督相続が認められるはずだったが、出生したのは女子だったので改易になったという。
それから、柏原は天領になってしまう。

家臣達はどうなったのか。
筆頭家老佐治与右衛門一置でさえ、再仕官の道はなく浪人を余儀なくされた(41歳浪人のまま江戸で死去)ので、殆どの家臣は浪人になってしまったのでは。
そのなかで、第2代藩主信則の弟で信勝の叔父信当(のぶまさ=当時50歳)は同年9月1日、旗本に取り立てられ、丹波氷上郡内3000石を与えられた。(後に小姓組に加えられる)よって信当に近い何人かの家臣たちはそこに士官できたのではないだろうか。

また、特筆すべきは、一置の継子・佐治為貞が江の次姉・初の嫁ぎ先の京極家に仕官できたことだ。
彼は、京極家とは血縁関係はないはずなのに…。どんな縁で仕官できたのだろうか?
私は彼を追ってみたくなった。

(ヨクロー)

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郷土史家はつらいよ~与九郎の消息を追って~

kaibaramap

私の恩師・早川先生は、実に大野佐治家に詳しい。かれこれ40年以上は研究されていると思う。
そんな早川先生の近年の講演の資料の中に、一つの事由が書き足されていた。

『佐治与九郎は柏原藩の筆頭家老として千三百石与えられた』と。

「先生、この事実、ネットには出てこないすよ。どこで調べられましたか?」と私。
「どこだったかなあ、思い出したら連絡いれたげるよ」
後日連絡あり。地元図書館にある「三百藩家臣人名事典5」にそう書かれているとのこと。
早速、図書館に行き、その辞典を調べる。確かにそう書いてある。
しかし、それがどうしてわかったのだろう?
佐治与九郎の項目の最後に、
『「丹波史」(一号)芦田確次』
とあった。
よし、直接この人から聞いてみよう。

実は、私が丹波柏原に行った最大の目的は、芦田確次さんにお会いすることだった。
GWを利用し、一路柏原へ。
夜、高速道路をぶっ飛ばし、早朝、柏原歴史資料館駐車場に到着。
少し仮眠。そして、開館前にちょっと町並みをブラブラ。
九時開館と同時に入館。そして、受付の女性に自分の目的を伝える。
「あのよ~、名古屋から来た者だけどよ~、実はのお…」
しかし、残念ながら、芦田さんはとうにお亡くなりになっていた。
それでも図々しい私は、佐治与九郎にお詳しい方に会いたいと、詰め寄る。
そして、お会いできたのが、柏原歴史の会・会長のTさん。
大変親切な方で、佐治与九郎に関する資料を尽くコピーさせていただいた。
その中に、芦田確次が佐治与九郎について書かれた『「丹波史」(一号)』
の原稿もあった。案の定、詳しく書かれている。
少し読んでみる。
なんと、昭和38年に瀧田英二氏にも会われていて、瀧田氏に「佐治与九郎について教えてほしい」と言われたのが調べるきっかけになったそうだ。
その二年後、瀧田氏は「常滑史話索隠」を著し、芦田氏に贈呈している。
芦田氏はよくぞ、柏原藩の一介の家臣にすぎない佐治を調べてくれたとつくづく思う。

私は、午前中で帰る予定(渋滞情報を把握しているため)だったが、Tさんとついつい話が弾んでしまって、午後三時まで柏原にいてしまった。
「やべえ」
渋滞情報はまじ正確である。
予想通り、帰路は大渋滞に逢い、柏原から家路に着くのに8時間もかかった。行きの倍の時間である。
途中サービスエリアに寄ったが、大混雑で食事すらとれず、めちゃくちゃ疲れた。

それでもかなりの成果があったと満足感いっぱいである。

私はまだまだ、Tさんからコピーさせていただいた資料を、紹介しきれていない。

(ヨクロー)

与九郎のひ孫・為貞の仕官先・京極家

柏原藩廃藩後、与九郎のひ孫にあたる佐治為貞の再仕官先の高次流京極家を調べてみます。
(京極高次は、ご存知、の次姉・初の夫)

takatsuguhatsu

高次は慶長14年(1609年)に47歳で死去、息子の忠高は大坂の陣で功績を挙げ、越前敦賀郡1郡をさらに加増される。また、徳川将軍家より正室を迎え、室町時代にかつて京極氏が守護として世襲した旧領国の出雲・隠岐の2カ国26万4千石へと加増転封とされた(松藩)。しかし、忠高は寛永14年(1637年)に嫡子の無いまま急死、末期養子に甥の高和を望んでいたが認められず改易されかけたが、高次の功績により存続を許され、高和は播磨龍野藩6万石へと移封減俸、さらに讃岐丸亀藩6万石へと転封となる。
(ウキペディアより)

柏原藩廃藩は1650年
京極家の播磨龍野藩転封は1637年
同じく讃岐丸亀藩転封は1658年

為貞は、播磨龍野藩に仕官したことになる。
柏原と龍野の距離はそう遠くない。
しかし、それだけの理由で仕官できるはずはない。
何らかの理由と誰かの働きかけがあったのではと考えるのが自然である。
だとしたら、それは…
ここからは推論になってしまう。
もう少し、突っ込んで調べてから、お話したいです。

(ヨクロー)

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プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

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