スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

世界最古の大野海水浴場

SAIKOEHAGAKI1.jpg

上の写真は、絵葉書の写真で、戦前の大野海水浴場です。
1210年(承元4年)後鳥羽法皇の和歌所寄人であった鴨長明が大野に訪れ、
「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」と詠んだことから、
世界最古の海水浴場ではないかとされています。
当時は潮湯治と呼ばれ、主に病気療養を目的とされていて、
必ずしも潮湯治=海水浴場でないところが、議論の分かれる部分です。

saiko1.jpg右の写真は、上の写真の中の立て看板を拡大したものです。
世界の海水浴場の開始年が書かれています。
大野海水浴場は大正12年(1923年)より712年前と書かれていて、計算しますと1211年となります。
諸海水浴場の中で一番古いです。
(よくエジプト時代とか太古から海水浴は存在するから、世界最古の海水浴場と名乗るのはおかしいと言う方がみえますが、そこがどこの海水浴場か特定できない限り、ここでは対象外です)

ここで昭和4年発行の大野町史306ページを抜粋。
大野の海水浴が世界最古であると称するのは、右記の如く歴史的事実に根拠に置いているのである。
設備の完全不完全ということは必ずしも歴史的意味を伴うものと限ってはいらぬ。
鴨長明が「生魚の御あへもきよし」の和歌を此の浦で詠じたのは昭和から遡って約765年前のことである。
摂津名所図絵第1巻住吉神社の條に6月14日社頭の群集住吉の海水へ浴し、百病平癒を祈願することを記しているが、之は560年前後の説である。
和泉名所図絵第1巻に堺寺地町旭蓮社の潮風呂の事を記しているが、之は建仁2年で、大野より20年程後である。しかも堺のは潮風呂であるし、大野のは自然の海水であることが其趣を異にしている。
西洋では英国が一番古いが、それでも18世紀始め(オサンの説)で、仏国之に次ぎ、1767年チペイに浴場を開き、1801年北海のノルデルネに開き、次に白耳義のオステンド・ブランベンダに開かれた。此の時代が最も盛んで、毎年2万以上と称せられていた。
次に和蘭1818年セウエンゲル、土奥州1844年アバチカ等続々海水浴場が開かれ、今日では内外ともに海に面する土地は凡て海水浴場として設備せらるるに至ったのである。
かくの如く見来る時は西洋で最も古いとせられている英国ですら250年位の歴史しかないとすると、大野は世界最古ということになるのである。(石井氏秘書)
唯単に以上の諸説から論断することはやや不備の点が少なくないように思われるが、兎に角之で大野の海水浴が随分古い歴史を有しているという証明には充分なり得る。

以上
文中の(石井氏秘書)とは何を意味するものか。大きな鍵を握っていると思います。
現状では、大野の歴史資料を沢山お持ちの三河屋番頭・石井善八邸の秘蔵の書物ではないかと・・・。

最近、テレビ番組(テレビ朝日系・シルシルミシル2009年7月15日放送)で、権威の在る学者がおっしゃっていたのですが、日本最古であるのは間違いないとのことです。

今後の研究がまたれます。

続きを読む

スポンサーサイト

tag : 海水浴場

尾張名所図会 尾張大野潮湯治の図

saiko4.jpg
この図は、江戸時代(1844年)に描かれた「尾張名所図会 尾張大野潮湯治の図」です。
男も女も全裸ですね。ヌーディストビーチみたい?
潮湯治は病気治療が目的ですが、行楽としてはどうでしょうか?
右の方の人は、砂遊びをしているようにもみえるのですが・・・。

続きを読む

テーマ : 名古屋・愛知
ジャンル : 地域情報

tag : 海水浴場

大野町役場発行の観光パンフレット

PANF1.jpg
大野町は昭和29年に常滑市に編入しました。
左の絵は町制時代の観光パンフレットの表紙です。
五つ折になっています。
戦前でしょうか?文が右から左になってますね。
やはり、観光の目玉は、世界最古の海水浴場なってます。
クロエモンさんが所蔵してました。

ssatsuma10.jpg
20090612065127c54.jpg
↑クリックすると拡大します。

続きを読む

tag : 海水浴場

尾張名所図会と現在の大野海水浴場

zueima.jpg

尾張名所図会と現在の大野海水浴場の画像を合成したものです。
小田切春江がここで描いたと思うと感慨深いものがあります。
将来はこの光景がどうなるのでしょうか。
この画像は、広島の國木さんが作ってくださいました。
ありがとうございます。

続きを読む

tag : 海水浴場

明治15年大野海水浴場の絵

hamay.jpg
この絵は、明治15年当時の大野海水浴場の絵です。
当時は、海音寺の西門が海水浴場への出入り口となっていて、
寺自体も、現代の海の家のような役割も果たしていたようです。


続きを読む

tag : 海水浴場

恩波楼主人 加藤勝彦氏に聞く

旅館「恩波楼」主人 加藤勝彦氏は大野海水浴場について大変お詳しいです。
今回、加藤氏に色々お聞きしたいと思います。
以下、加藤氏のお話です。

onparo2.jpg大野汐湯治を語るには、大野谷の歴史から始めねばならないと思われます。
大野谷とは、遺跡分布図によれば縄文時代初期には南粕谷周辺まで海水の進入があり、貝塚の所在が確認されております。
縄文時代中期には上流からの土と海からの砂で埋まり、徐々に海退が進み浅い沼地となったと記されています。その頃の大野は、砂の山のような海の中の島ではなかったかと思われます。
縄文時代後期に入るとさらに海退が進み、大野も陸地となりました。そのため、大草台地の集落から入々が漁労を行うために大野の浜にやって来るようになったと思われます。
その頃の大草台地には大草湧水があり、人々は生活に必要な飲料水を求めることが出来ました。
そして、大野の浜にも大野谷湧水がありました。このふたつの湧き水は今も湧出しております。大野谷湧水は硬水であり、飲むことは出来ませんでした。大草台地に住む人々は、この湧水で傷口を洗うことでケガを治していたのではないかと想像するのでございます。
この大野谷湧水は海水の三分の一ほどの塩素イオン濃度なので、傷口に染みる事も無く治療出来たのではないでしょうか。
縄文時代の海彦・山彦達がこの浜で治療したことが、大野汐湯治の原点ではないかと思われるのです。
『方丈記』の作家鴨長明がこの地を訪れる数千年前から、このような湧水による治療が行われていたとすれば、大野谷湧水が大野汐湯治(世界最古の海水浴場)の歴史を変えるのではないかと思われるわけであります。今も潮が引きますと渡渡と冷たい水が湧き出ております。数千年の空白の中に三河から伊勢への道筋も出来、大野汐湯治は伊勢湾を囲むそれぞれの地域に、人づてに伝わっていったものと思われます。
1223年(海道記による)の頃には、大野の地にも寺院が建ち、多くの湯治の人達が浜に存在していました。長明の過ごす館もあったのでしょう。和歌の内容からも、この大野の浜が快適であったことが伺えるのです。
『尾張名所図會』に汐湯治の様子が描かれています。調度浜の面積の五割程の水辺に湧水の形跡があり、その場所に人々が集い、治療しているのであります。熱い石で焼いた傷口を湧水で洗い、又、汲んだ湧水に焼き石を入れて風呂として用いたのではないでしょうか。古代から中世へと移る間に、人々は色々な方法で汐湯治を行ったのではないでしょうか。
そこで、今まで〈汐湯治〉という言葉を使ってきましたが、この言葉の由来を私なりに考えてみました。古来、日本人は冬至には柚子湯に浸かり、その香気と成分により体を癒しました。冬至の柚子湯から〈湯治〉へと入って行ったものと思われます。温泉湯治はその地気(蒸気)と湯成分の保温効果により、広く人々に利用されるようになりました。
大野汐湯治は1223年に鴨長明の和歌に始まり『徳川秀忠の見舞状』、『尾張名所図會汐湯治』、『浜薬師絵図』によって解説されています。
明治23年、愛知県令(知事)国貞廉平氏の尽力により海水の成分分析がなされて、海気に優れている事が証明されました。体内に入った海気が海水の成分も合い間って、温泉に浸かることと同じ様に体を癒したと言い伝えられています。すなわち冬至の温泉湯治、夏至の汐湯治であります。これが汐湯治の言葉の意味と解している理由あります。
さて、平成の大野汐湯はと申しますと、すでに海は昭和20年代の海ではありません。環境が悪化しております。しかし、大野は伊吹鈴鹿の山脈から吹き下ろす風が知多半島で一番強く吹く所であり、木曽三川と伊勢湾の海気(オゾン)が吹き寄せる所であります。私はこの風を浴びる事を平成の汐湯治と致したいと思っております。
先に述べた大野谷湧水でございますが、私白信が湧水の事を知ったのは昭和27年頃の夏であったと記憶しています。父親に海水浴に連れて行ってもらい、砂地や石の間から湧出する冷たい水が湧水である事を教えられました。それから五十八年、この暑い夏に湧水に触れ、父とのふれあいを思い出し、水の検査をしたのでございます。その結果は、塩素イオン濃度が海水の三分の一、硬度が約三千という硬水で飲用は不適、風呂には最適との事でした。この湧水の事を先人達は知っていたと思われますが、私の様に古代の夢を追う様な事はしなかったのではないかと思われるのです。
今の環境がこれ以上悪化しない事と、大野谷の白然と大野の浜と湧水がいつまでも変わりなく続いてくれる事を願って終わりと致します。
平成19年9月20日         恩波楼主人 加藤勝彦

続きを読む

tag : 海水浴場

大野に送られた、秀忠書状

hidetadashokan.jpg

この書状は、慶長3年(1598年)、二代将軍秀忠の弟福松(後の清州城主松平忠吉)が大野に腫物治療を行なうため潮湯治に来たときに、秀忠から送られた見舞状です。
(「常滑の古文書」常滑市教育委員会 昭和54年3月発行 千賀家旧蔵文書 p28秀忠書状(一) より)

*1行目は、「ち多志を湯治場をゝの」→「知多潮湯治場大野」(山下和年氏訳)

続きを読む

tag : 海水浴場

大野町附近名所古跡案内

annai21.gif

annai22.gif


annai1.gif
上の資料は、昭和11年(1936年)に、愛知県知多郡大野青海山観光協会から発行された「大野町附近名所古跡案内」です。(2つに分けて紹介)
ハカセ所有。
この観光協会は、あまり長く続かなかったそうです。

左は、2項目目を拡大したものです。

一、世界最古海水浴場(大野町洲岬にあり)
創設は約壹千年前と伝ふ
後鳥羽上皇和歌所寄人 鴨長明は兼ねて京都に於いて大野海水浴の効験卓絶なる事を伝聞し今を去る726年順徳天皇御宇伊勢大廟へ参拝の途路当浜へ光来長く滞在し入浴の記念に左の一首を残し置きたり
○生魚の御あへも清し酒もよし 大野のゆあみ日数かさねむ


と書かれています。
昭和11年(1936年)から726年前といってるから、1210年。承元4年。
鴨長明は55歳の時に大野に来たことになります。
「創設は約壹千年前と伝ふ」てことは、もうすでに西暦900年代頃、平安時代には潮湯治場だったということになります。


続きを読む

tag : 海水浴場

風流漫筆 知多めぐ里

chitameguri.jpg
上の絵は昭和12年6月25日発行の「風流漫筆 知多めぐ里」という今で言う観光ガイドブックの絵です。
立て看板には、
世界最古の海水浴場
当浴場ノ開始ハ
順徳天皇建暦二年七月
七百二十三年前 昭和九年xx

と書かれていますね。
前に紹介した絵葉書とは違う立て看板でしょうか?

続きを読む

tag : 海水浴場

後藤新平の功績

gotou-shimpei.jpg明治14年(1881年)、後藤新平(当時愛知病院長、後に内務大臣等)が、大野に来遊。海水の試験を行いました。
その翌年、長与専斉が随行し後藤新平は再び来町し、詳細な調査や実験を行ないました。(大野町史より)
そして、後藤新平は一般人に対して日本で初めての海水浴啓蒙書である『海水功用論 』を著します。
彼の執筆の動機は海水浴の医学的効果を説き、人びとを啓蒙するため。
海水に浸かることで、病気を治療し、健康を増進させること。
これにより、今まで大野の潮湯治として栄えてきた大野の海岸は、海内好箇の海水浴場として脚光を浴びることになります。
いわば、後藤新平は大野海水浴場の功労者です。



gotosinpei2.jpg
この写真は、大正9年、大野町役場にて 前列中央が後藤新平


続きを読む

tag : 海水浴場

愛知県令 国貞廉平

kunizadarenpei.jpg4代目愛知県令(知事)国貞廉平は、後藤新平と同時期、海水浴奨励のため、更に外人ムーデルに海水の試験をさせたりした。
其の時の分析表は次の如し(中略)
試験の結果は、第一、海気清潔人身に適し、第二、海水の科学的効果著しく、第三、波動の刺激衝動よく人身に適していると賞賛したので、大野の海水浴は当時に増して盛況を見るに至った。
明治14年当時、町の有力者によって、海音寺境内に加温浴場を開始(後に愛知電鉄に経営を移管)。(大野町史より)
明治18年1月、国貞廉平は在任中に死去。
明治23年(1890)、国貞廉平の功績を記念して、記念碑を海音寺境内に建立しました。
呼吸千里の碑といいます。
題字は当時の6代目県令白根専一氏。
国貞氏作の漢詩が書かれ、書家が絶賛するものですが、残念ながら今は読めません。何とかならないものでしょうか。
現在は海岸近くの駐車場脇に移転。ひっそりとたたずんでいます。

kokyusenri1.jpg

その碑は下記のように書かれてありました。

里千吸呼
酒是芳甘魚亦鮮蓙氛不到枕書眠
官人楽境人知否例浴恩波己四年
大野客中作 韓山

此詩故縣令韓山國貞君来遊中所作也近年大野村海水浴以其多
功験病客来浴者不少、盛夏之時官吏賜暇故浴客最多、君以其
地在部内、毎年暑中来浴、蓋以有所適病也、有棲名恩波宜眺
望、君浴畢讀書於此倦則飲酒賦詩、間雅自娯、毎經数句而去、
故里人亦多知之者、今茲君嬰病奄然棄世而浴期將至、里人思
慕之不置、乃刻此詩於石、以永供紀念云、明治十八年六月一
日竹塢飯田俊應需 識之
明治二十三年八月十一日 常山井村貫一書 鶴年刻

内務次官従四位 勲五等 白根専一題額

続きを読む

tag : 海水浴場

海女の実演

ama3.jpg
これらは昭和29年の写真です。
昭和34年まで、毎年海水浴シーズンになると、伊勢の方から海女さんがやってきて頂いて、大野海水浴場で実演を行っていました。
右のヒゲの男性は、最後の大野町長・平野昭三氏。
ama1.jpg
船に乗って、やってきます。
ama2.jpg
お綺麗ですね。

続きを読む

tag : 海水浴場

海音寺境内の加温浴場・千鳥温泉

kaononsen2.jpg kaononsen3.jpg

明治14年(1881年)、町の有力者により、大野海水浴場横の海音寺境内に、千鳥温泉という名で、加温浴場が開始されました。(大野町史)
加温浴場とは海水を沸かした温泉のことです。
写真がその建屋。昭和40年(1965年)頃まで続けられました。
海女さんもここで宿泊していたのでしょうか?
ハカセは高校生の時ここでアルバイトをしていたそうです。
今そこはリゾートマンションになっています。

続きを読む

tag : 海水浴場

郷中知多栗毛

chitakurige.jpg
、「郷中知多栗毛」(南瓜未成著 1843年(天保14年)発行)には、大野の潮湯治の様子が詳しく書かれています。
十返舎一九の『東海道中膝栗毛』の模倣作で、弥次さん喜多さんが名古屋市中を見物したあと、熱田から湯治舟に乗って大野に向かいます。そして、汐湯治したり、大野の町を色々観光するという内容です。
その当時実在した大野の観光名所や名物・商店も色々紹介されています。
大変貴重な資料です。

潮湯治の模様の一部を紹介。
「砂原の上に、お尻に石をはさんでいるのは何故か?」
の問いに、
際に居る湯治客が
「痔疾のある人が、焼けた石をケツに挟んで、熱いのをこらえていると痔が治る」と答えています。
また、
「石をかかえて仰向けに寝ているのは?」
の問いに、
「ああしていると腹痛が治る」と答えています。
加え、
「大きな石をまたいで、角石でカチカチたたいているのは?」
の問いに、
「きんたまの毛を切るんだ」


30603705.jpg
「膝栗毛」文芸と尾張藩社会
岸野俊彦・清文堂出版

続きを読む

tag : 海水浴場

鴨都波(かもつば)神社

saiko6.jpg
写真は常滑市榎戸の海岸近くにある「鴨都波(かもつば)神社」(奈良県御所市にある神社の分社)です。
鎌倉時代初頭。大野庄の一部だった榎戸の海岸付近の新田開拓を鴨氏族がまかされていました。
その子孫が現在では斉田氏・吉田氏となり、今でも当地の海岸に分身を祀っていてることが碑碑に書かれています。
鴨長明は、この鴨氏(親戚)を頼り、この地に来て汐湯治を楽しみ、下の和歌を詠んだと言い伝えられています。
「生魚の御あへもきよし酒もよし大野のゆあみ日数かさねむ」

IMG_0570.jpg下記、左石碑に書かれている文字です。
鴨都波神社の分神歴史傳
本社所在地 奈良県御所市宮前町
大和平野の東南の山麓さらに山への道をとる
葛城山、金剛山の南端近く御所村鴨族が
奉斎した神社、神話の一つ御歳神社大賀茂族命
「大賀茂豆尼」大物主神、神斎太田々根子命の孫
なりと云う 水稲農村の御歳神大国主命
鴨都波神社あり 其の分神なり
また修験道の開祖役行者鴨族の子孫で
笛吹の職をする尾張族が愛知県に入植した
其の分家一族が農耕に栄え修行に通ったと云ふ
吉野、大峰山、葛城詣りの古話傳も当地に在り
新田開耕者の守護神として海岸に(現在)地に
祭れり
新田山神講守護神
大野新田、八町並木畑、牛道新田、浜新田
河城新田、佐治兵衛新田、中道並木
開村移住者現在の齋田、吉田家九先祖
系續守護神として春節秋節期に講中
一同にて守願祈り
天地久皇運、国土安穏、五穀成就
家中安全、息災延命七難即滅
七福即生、諸人安楽、諸願成就
講中安全、皆命満足を唱へ
奉り災難を拂ひ願ひ奉りし守護神を
口傳現に至れり
昭和五十六年 酉年
四月 吉田建立

続きを読む

tag : 海水浴場

大野海岸の三つの浜


大野海岸は、三つの浜の地名があります。
上の地図で説明しますと、
海音寺の海の字のところが、「瑠璃が浜」。今の海水浴場のところです。
尾張名所図会の大野の潮湯治の絵は、ここが描かれています。
大野海水浴場と書かれている所は、「千鳥ヶ浜」。後藤新平が海水調査をした所です。
そして、エネオス斜め上の大野漁港あたりが「砂子浜」。
これらの名は今では行政的には使われていません。
結構、趣きのある名だと思うのですが。

sunagoengei.jpg

補足ですが、北隣の新舞子の地名は、昔は「松原」といっていました。
また、南隣の西之口の駅名は、常滑線開通当時は「新須磨」駅といってました。
関西地方で、舞子海岸・須磨海岸という行楽地があり、鉄道会社がそれにあやかって、大野周辺の海水浴場開設の時に命名しました。

続きを読む

tag : 海水浴場

大野海岸の夕日

oonokaigan2.jpg

この話題ははずせません。
大野海岸の夕日は実に素晴しいです。
空と伊勢湾が美しく紅に染まります。
多くの先人もこの光景も見ています。
ぜひご覧になってください。


続きを読む

tag : 海水浴場

二枚の「世界最古海水浴場」の絵葉書、検証

saikoehagaki2.jpg

SAIKOEHAGAKI1.jpg

下の絵葉書は以前紹介したもの、上の絵葉書は今回お借りしたものです。
どちらもいつ撮られた写真かわかりません。いつ頃でしょうか?
ただ判ることは、どちらも大正12年以降の写真。右端の看板からわかりますね。「世界最古海水浴場」の字体・高さの位置が同じですので、おそらく同じ看板でしょう。
「下の絵葉書は裏表とも一切英語でかかれていません。よって、英米を敵視した戦時中に発行したものと思われます」(ハカセ)
上の絵葉書は、英語が使われていることから昭和15年以前の発行かと。加えて、松の枝の成長具合を比較して、下の絵葉書以前に撮られたものでしょう。また、壱銭五厘の切手が貼ってありました。その料金はいつの時代かな。消印は押してありましたが年が確認できない。
この二枚の絵葉書に情報をお持ちの方。比較して何かお気付きの方。ご連絡をお待ちしています。

続きを読む

tag : 海水浴場

大野海岸が潮湯治に適している理由

大野海岸はなぜ潮湯治に適していたのでしょうか?
大野町は地質の関係から、湧水(ゆうすい)と言って、町中所々にに身体にいい湧き水がでてくるそうです。
海岸にもその湧き水はでてくるため、大野の潮湯治は大変身体にいい水質になっているのです。
下の新聞の記事は中日新聞2007年10月3日の知多版に掲載されたものです。
自身で水質調査された「恩波楼」旅館の主人・加藤さんの尽力には敬意を表します。

wakimizu1.gif

続きを読む

tag : 海水浴場

大野の南にあった「新須磨海水浴場」

sinsuma.jpg
左の写真は、大正14年発行の大野の観光ガイドブックの表紙です。
大野の左側に、新須磨の名が書かれていますね。

表紙を開くと、下の地図があります。
確認すると、大野の南に位置する西之口の海岸に、
しっかりと新須磨海水浴場と書かれています。

以前、新須磨海水浴場は碧南にあった海水浴場ですよというコメントを頂きましたが、
確かに、少なくとも大正時代には、大野の南にもその名の海水浴場はあったのです。
(ちなみに碧南の新須磨海水浴場は大正3年(1914)開業だそうです)

大野海水浴場を挟む、新舞子・新須磨両海水浴場は
関西の舞子海水浴場と須磨海水浴場にあやかって名付けられました。
その頃の詳しい経過をご存知の方は、いらっしゃらないでしょうか。
(ヨクロー)

sinsuma1.gif



Beach Boys - Good Vibrations
プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

カテゴリ
最新記事
最新コメント
検索フォーム
FC2カウンター
リンク
フリーエリア
月別アーカイブ
夢を叶えるための名言集


presented by 地球の名言
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
The Great Dodecahedron
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。