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初婚相手 江(浅井長政娘)その2

「続群書類従」所収「浅井系図」・「太閤素生記」・「右二記」に、
は、三度結婚、初婚は佐治一成・再婚は小吉秀勝・再再婚は徳川秀忠だと、記されている。

まず、の三人目の夫・秀忠との婚姻時期から焦点が当てられている。
その時期には「御家御続帳」や「徳川実記」台徳院殿(秀忠)の巻文禄4年の事項に、文禄4年(1595年)9月17日と、明確に記されている。
この点においては、何ら不審は無い。私も否定しようがないし、否定している人をしらない。

これ以降になると、の足取りはぐんと明るいものとなる。

sada.jpgただ、瀧田氏は、小吉秀勝との間の子・完子は、秀忠養女で、連れ子であったと主張する。
これは推測でもなんでもない。
根拠は、「東福寺誌」所引の塔頭大機院の「雨壇歴代御廟記」に、
天真院 台徳院秀忠公猶子、実丹波少将秀勝卿女、太閤惟忖院幸家公之政所完子、萬治元年戌8月十八日逝
と記されているからだ。
このことは、渡辺世祐博士の「豊太閤と其家族」・「豊太閤の私的生活」に於いても詳説されている。
そして「寛政重修諸家譜」以下の誤りを繰り返す者を、今なお耳にすることは遺憾である。とまで瀧田氏は言っている。

完子は、茶々に養育されておらず、の連れ子として、徳川家で育てられた。


どうなんでしょうか?
ちょうど今、大河で、ここら辺のことをやっていますね。
この点にお詳しい方、ぜひコメントをお待ちしております。

(ヨクロー)
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tag : 大河ドラマ

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No title

こんにちは☆
江さんの結婚歴はその通りでしょうね~
何せ16~17世紀の話だから、古文書しか資料がないものを、いいかげんな判断をするのも難しいでしょう。

研究家の調査発表にもとんでもないと思うものがあるかも^^

Re: No title

> こんにちは☆
こんにちはv-208
最近まり姫さんが、孤独な老人を癒してくれる優しいヘルパーさんのような存在に思えてきました。
他の方からもコメントほしーよー。

> 江さんの結婚歴はその通りでしょうね~
どう考えてもこれは動かせないでしょう。

> 何せ16~17世紀の話だから、古文書しか資料がないものを、いいかげんな判断をするのも難しいでしょう。

変な固定観念を持たず、素直な気持ちで読み取れば、何が正しく何がおかしいか見えてくると思います。

>
> 研究家の調査発表にもとんでもないと思うものがあるかも^^
当然あるんじゃないですか。
だって本当のところはわからないのが歴史だと思いますから。

No title

ヨクロー様
こんばんは。
これには反論を。
完子は九条家へ嫁ぐ際、茶々が介在したことは資料に残っていますので、間違いないと思います。
 その完子が産んだ子が二条家へ養子へ入ってます。
名を康道といいまして、家康からのへんきが与えられます。
つまり秀忠とは年代があいません。
あと反論もあるようですが、完子は当時織田秀信と婚約していたと思われますので、連れ子はないと思われます。

Re: No title

> ヨクロー様
> こんばんは。
> これには反論を。
こんばんは、k2さん。
お待ちしてました。

> 完子は九条家へ嫁ぐ際、茶々が介在したことは資料に残っていますので、間違いないと思います。
> その完子が産んだ子が二条家へ養子へ入ってます。
そうですね。存じております。

> 名を康道といいまして、家康からのへんきが与えられます。
> つまり秀忠とは年代があいません。
> あと反論もあるようですが、完子は当時織田秀信と婚約していたと思われますので、連れ子はないと思われます。
これらは、どうなんでしょうか?茶々が養育したという根拠としてはちと弱いような気がします。
でも、だいたいk2さんと同じ見方です。いや、でした。
この件、あまり佐治と関係ないのでさして深く思ってなかったのですが、今回頭をリセットして考えてみました。
完子は九条家へ嫁ぐ際、茶々が介在したことは、必ずしもイコール茶々が江の実子を養育していたことにはならない。婚儀は1604年でしたよね。時代背景から考えて、むしろ逆で、徳川と公家との結びつきを恐れ、完子が豊臣の血が流れていることを世間に知らしめるために、京の人が驚くほどの婚儀を茶々は行わなければならない必要性があったと考えられないでしょうか。

私はこの件まだまだ議論の余地があると思います。
ご意見ありがとうございました。

No title

ヨクロー様
はじめまして。
「雨壇歴代御廟記」の記載についてですが、秀勝に関しては、丹波少将の後に「参議平」秀勝卿と続くはずですが。
つまり記載者は、小吉ではなく於次をイメージしており、この事からも、正確な情報を元に記されていない事が判ります。正確に記すなら、岐阜宰相となっていなければいけません。
この書物自体も、根拠とするには弱いものだと思います。

Re: No title

> ヨクロー様
> はじめまして。
はじめまして、武江さん。
また、お詳しい方からコメント頂き、嬉しいです。

> 「雨壇歴代御廟記」の記載についてですが、秀勝に関しては、丹波少将の後に「参議平」秀勝卿と続くはずですが。
> つまり記載者は、小吉ではなく於次をイメージしており、この事からも、正確な情報を元に記されていない事が判ります。正確に記すなら、岐阜宰相となっていなければいけません。
> この書物自体も、根拠とするには弱いものだと思います。
なるほどです。「雨壇歴代御廟記」の信憑性を疑ってみるのも重要だと思います。
ただ、秀勝は3人もおり、実に紛らわしく、記載者はそういう情報を信じただけで、文面から読み取るにやはり小吉を指しているのではないのでしょうか。丹波少将が小吉であるという文献は他にもあり、それを根拠にその記載の全てを否定はされてないはずです。いちおう小吉も於次の後、丹波国亀山城主になっていたことですし。
いつ、完子が徳川の養女になったか?それが連れ子であったか否かのポイントじゃないでしょうか。
私は決して連れ子だったと断定しているわけではありません。
「常滑史話索隠」読後、完子関連の文献を読むと茶々が養育していたと読み取れなくなってしまったのです。
私の脳味噌は暴走してるのかな?

No title

ヨクロー様
こんばんは。
「幕府祚胤伝」では、江の2番目の夫を、明白に「織田氏の」羽柴秀勝としています。「両壇歴代御廟記」も、わざわざ「平姓」にしている事から、於次と勘違いしている可能性は非常に高いと思います。
「柳営譜略」に確かに(ある意味無難に)丹波少将秀勝に嫁した、とあります。これは、福田説、k2さん説の江が嫁した時期の、小吉の官途・所領名からすれば、正しい表記と言えるでしょうが、その亡くなった後に生れたとされる完子に関する記述では、当時の官途・所領から、岐阜宰相が使われるはずです。
私も、「両壇歴代御廟記」の根拠としての弱さを述べたに過ぎず、可能性を完全に否定しているものでは有りません。複数の史料から検証してみる価値は有るものと思います。

No title

ヨクロー様
コメントでの反論を。
時代背景からの反論で、むしろ逆で徳川と公家との結びつきを恐れ云々ですが、どうもしっくりきません。
 九条家との婚儀は前に指摘したことがありますが、二条家の後妻に入った秀吉側室三の丸殿死去(1603)への追加施策ともいうべきもので、その主体は豊臣家であったと思っています。
 また徳川と公家の結びつきを恐れとありますが、それで何故秀忠の猶子なのか釈然としません。

於次と小吉の件ですが、東福寺誌の発行された大正年間ではまだ、別人だという見解にはなっていないからだと思います。
 

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武江さん・k2さんへ

忌憚のないコメントありがとうございます。
地元では中々こういった議論はできません。
お二方のご意見もなるほどと思います。
やはりレベルが高いですね。
また勉強して、色々発表したいと思います。
反論大歓迎です。
今後も色々教えてくださいね。

No title

あけましておめでとうございます。御無沙汰いたしております。
今更ながらこの記事に巡りあったので、茶々研究家のはしくれとして私にも一言口出しさせてください。

仰る通り、茶々が婚礼の一切を面倒見たからと言って完子がずっと茶々の養育下にあったという証拠にはなりません。
茶々は他にも、氏家古奈という女性の婚礼も面倒見ていますが、この女性は茶々の養女ではなく、妹初の養女です。

ただ、ここで、その完子の婚礼、出自について最も詳細に記している一次史料『慶長日建録』の記載を引用させていただきます。

「其身三好小吉息女也、小吉死後、秀頼卿母堂為猶子養育也」

舟橋秀賢の解釈では、完子は、小吉の死を契機に茶々が引き取り養育した、と明記されてあります。
舟橋秀賢は豊臣家との関係も深く、茶々の依頼で秀頼の勉学の師を務めるなど、豊臣家内の事情には詳しかったであろうことが伺えます。そのため、彼のこの記載には一定の信頼を置けるものと考えられます。

なお、大河ドラマ等では、江が徳川家に嫁ぐ際に茶々が引き取ったとなっていますが、秀賢の記述に忠実に解釈するならば、茶々が完子を養育し始めたのは小吉が亡くなったことが契機であるとされています。
御承知の通りこの頃江は健在ですので、完子だけではなく江ともども、母娘揃って小吉の死を契機に茶々に引き取られたと考えるほうが自然でしょう。

「猶子」という言葉を使っていることから、今日の言葉の解釈を用いて「養子」とは別物であると解釈されることもありますが、この時代に猶子と養子というのは頻繁に混用が見られます。

また、完子が九条忠栄の子を出産しているタイミングにも完子と豊臣家・徳川家の関係を伺うことができます。
完子は婚礼(慶長九年)の三年後、慶長十二年に長男松鶴(のちの二条康道)を産んだ後、慶長十四年に九条忠象(道房)、慶長十六年頃に長女序、慶長十八年に次女通、慶長二十年に千世鶴(のちの松殿道基〔道昭〕)…とここまで、二~三年間隔で出産しています。
しかし、その後四男玉松(栄厳)を生んだのが元和八年、またその三年後にあたる寛永二年には三女日怡を生んでいます。
二~三年間隔に出産していた完子が、三男と四男の間のみが八年という間隔があいています。そしてまた三年を明けて三女を出産。…千世鶴が生まれた慶長二十年=元和元年になにがあったかというと、御承知の通り大坂落城の年にあたります。

つまり、どうやら完子はこの年を契機に、数年間夫との接触を控えていたらしいことが伺えるのです。
これは、完子自身が豊臣宗家と深い関わりを持っていたことの間接的な証左です。
そして、元和七年頃四男を妊娠しているわけですので、その頃おそらく江の尽力によって、茶々の娘(養女)であった完子は茶々の養女という微妙な立場から秀忠の娘(養女)としての扱いを受けることができるようになったと考えるのが自然ではないでしょうか。

完子が茶々の養女であったということも、秀忠の養女であったということも、どちらも私は真実であったと考えています。
完子が亡くなった時点で、彼女が秀忠の養女分であったことが、ヨクローさんの引用されている史料に繋がっているのだと考えます。

長々と申し訳ありません。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。

Re: No title

> あけましておめでとうございます。御無沙汰いたしております。

> 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

あけましておめでとうございます。
さすが、紀伊さんお詳しいですね。
また、茶々への思い入れもすごいものがありますね。
完子のこと大変勉強になりました。
こちらこそ、本年もよろしくお願いします。
プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

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