スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

初婚相手 江(浅井長政娘)その3

秀忠の次は、の再婚相手・小吉秀勝について書かれています。

秀勝と称した人物は3人いる。
まず、秀吉の側室南殿との間に出来た子・石松丸。天正4年、6歳で夭折。
次に、信長の四男で秀吉と養子縁組をした於次丸。天正13年、18歳で病死。
そして、秀吉の妹智子の次男で、秀次の弟・小吉。彼がの再婚相手である。

この結婚の時期は、小吉が叔父秀吉と養子縁組した際の天正14年と瀧田氏は推測する。
根拠は、於次の死去によって、織田家とのつながりが断ち切れてしまうのをおそれ、強引に一成と離縁させ、再婚を断行したというもの。

しかし、その時期でその根拠であるなら、今度は私が反論したくなる。
仮に、そういう根拠で時期が天正14年なら、なぜ、相手は未婚の初でなく既婚のなのか。(初は天正15年、京極高次と結婚)
一成は、信長の妹お犬の方の子。初という対象が残っていながら、それでも信長の甥姪にあたる夫婦を無理に離縁させてまでを選択するのだろうか。ちなみに一成の弟・秀休(織田熊介)は、秀長に仕え、秀吉の一字を貰い、主君の失った中川家に養子行き、決して冷遇はされていない。
別の時期・別の理由があるような気がしてならない。
(大河のように、家康を助けたからとか、格下だからという理由は論外)

小吉、永禄12年(1569年)生まれ。偶然一成と同い年である。

天正13年(1585年)12月10日丹波亀山城主・於次秀勝死去により、秀吉の養子となり、秀勝と名乗る。
天正18年(1590年)小田原陣後、甲府に移り、更に翌年岐阜に移り、岐阜宰相とも呼ばれる。
文禄元年(1592年)9月9日、朝鮮出兵、朝鮮唐島にて戦病死。
「多聞院日記」にはそう書かれている。

また、この著書の中ではないが、
「兼見卿記」天正13年(1585年)10月20日の条に、18日に「小吉祝言」と書かれている。
これは、との結婚を意味するのかどうかは学者の中で意見が分かれているという。
於次存命中で、小吉はまだ秀吉の養子になる前の時期であるので、確かに早すぎる感は否めない。
多産のにしては、第1子誕生に9年もかかってしまったことにも気にかかる。
ただ、これ以外の江の再婚時期と思われる資料を、私は知らない。

江の再婚について、どなたかご教示願います。

(ヨクロー)
スポンサーサイト

tag : 大河ドラマ

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

No title

新年早々に連投すみません。
この件に関する私の考えを述べさせてください。

まず、初の婚姻時期を天正十五年としていること、これは夫高次の昇進状況(大溝城主になったこと)をもとに推測されているに過ぎず、実は史料的根拠のない情報です。これは、私はもっと早かったものと考えています。
前述の通り史料がないため断定はできませんが、その時期は天正十二~三年ごろであったのではないかと。

『渓心院文』によると、初の結婚は秀吉が意図する以前からもともと「筋目」があり、秀吉が茶々に対し自らの側に侍るよう命じたところ、茶々は「妹たちがしかるべきところに嫁いでから御意に従いましょう」と言ったというエピソードが残されています。
他の史料にこのエピソードがあったら、信憑性に疑問を抱かざるを得ないのですが、渓心院という女性の来歴を考えるに、これは初自身が渓心院の祖父か母に直接姉茶々の思い出を語ったものと思われ、私は看過できないと思っています。
京極高次と初の縁談は、そもそも信長の生前から話があり、その筋目通りに秀吉が二人の婚礼を遂げさせてくれることを茶々が願ったというのが真実ではないかと考えます。

秀吉にとって、いくら名門とはいえ没落しかけていた京極家に政略結婚で使える大切な手駒を使うというのは、従来から利点が少ないことが指摘されていました。高次は当時秀吉にとって、妻である京極龍(松の丸殿)の嘆願で辛うじて生き残った存在にすぎなかったと思います。
しかし、信長にとって高次は幼いころより京極家から出されていた人質でした。信長の晩年、高次は一人立ちする年齢でした。信長にとっては、高次の一人立ちによって薄くなってしまう京極家との関係をつなぎとめるという意味が初の輿入れにはありました。

このような事情から、私は高次が秀吉に許された天正十二年の時点で初が輿入れする可能性が充分にあったのではないかと考えています。
龍の嘆願で高次がこの年秀吉に許され所領を得、茶々の嘆願で「筋目」通りに婚礼が挙行され、更に出世に拍車が懸った、と考えます。
なお、この天正十二年は初は数え十五歳になりますので、当時の婚期としてはまさに適齢期です。

そして、江が完子を出産した年齢ですが、一般的に文禄元年となっていますが、これも史料的根拠がありません。
k2さんの解釈をお借りすると、唯一『以貴小伝』に完子の誕生のタイミングが記されており、それによると朝鮮出兵より前に完子が生まれていたらしいことが伺えるそうです。
天正十三年の「祝言」の記事が小吉と江の婚礼であったとの解釈に私は賛同するところです。そして完子の誕生のタイミングも唯一史料として残る『以貴小伝』を看過することはできません。
初が天正十二~三年ごろ結婚、続いて江が天正十三年十月結婚、茶々は江の輿入れ後すぐに秀吉の元に侍ったというのが現在のところの私の見解です。

Re: No title

> 新年早々に連投すみません。

>> 初が天正十二~三年ごろ結婚、続いて江が天正十三年十月結婚、茶々は江の輿入れ後すぐに秀吉の元に侍ったというのが現在のところの私の見解です。

なるほど。初の婚姻時期の検証も必要ですね。
筋も通っていると思いました。
紀伊さんの唱える初の婚姻時期の説を裏付ける史料が見つかるといいですね。
江が完子を出産した年齢も根拠がないんですか。知りませんでした。
歴史ってわからないことだらけなんですね。
プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

カテゴリ
最新記事
最新コメント
検索フォーム
FC2カウンター
リンク
フリーエリア
月別アーカイブ
夢を叶えるための名言集


presented by 地球の名言
最新トラックバック
RSSリンクの表示
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
The Great Dodecahedron
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。