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大野城落城の諸説

ここのカテゴリーでは、主に、お江とお江の最初の嫁入り先・大野城主佐治与九郎とは、いつどのように結婚・離縁させられたのかを研究したものを記します。

まず、その結婚離縁にはさまれるように、大野城はいつどのように落城したのでしょうか。
その事実を書かれた古文書はなく、
諸説を紹介します。

○与九郎が小牧山の合戦で家康に味方をしたので、秀吉の怒りを買って大野城滅亡。(系図総覧)

○天正年間、宮山城主佐治与九郎は、秀吉と一戦に及び、落城。その日金蓮寺一山迦藍、僧坊、兵火のために焦土となる。(安永8年筆、大野宝蔵寺蔵、大般若経経匱由来書)

○天正12年4月、小牧での一戦の後、家康が三河へ帰る途次、佐屋の渡りで船がなくて困っていたとき、佐治与九郎が船を提供、家康は無事岡崎へ帰ることができた。それを知った秀吉が怒って、お江を呼び戻し、大野城を滅ぼした。(柳営御婦人伝記)


○秀吉が、明智光秀・柴田勝家を成敗の後、尾張一圓は、信長の三男織田信雄に帰した。佐治与九郎もその信雄の輩下に属し、信雄の重臣、岡田重孝は、星崎の城に配置された。しかし、岡田は、天正12年3月6日、秀吉に内通する疑いで信雄に殺された。主を失った星崎城は、篭城して旧主信雄に対する構えを見せたが、緒川の水野忠重・勝成父子のもとに陥落した。その時、岡田方に味方した大野城も、旧主信雄の手の者に攻め滅ぼされた。(瀧田英二氏説)

三番目が通説となっているようですが、果してどれが真実でしょうか?

oonojonozu.png

また、いつ落城したのか?
1585年(天正13年)に書かれた織田信雄分限帳には佐治与九郎の名は見当たりません。
よって1585年以前、かつ、お江の嫁入り(1583年4月賎岳の戦い後)後
落城したものと思われます。

二人の父を失い、母・お市を失い、新婚早々すぐ落城の憂き目に遭う。
お江の不遇の時代はまだまだ続きます。
(ヨクロー)

 Captain & Tennille-愛ある限り( Love Will Keep Us Together )

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No title

いよいよですね。

Re: No title

> いよいよですね。
頑張ります。
応援してください。

No title

こんにちは☆

通説はいくつかあると思いますが、どれが真実に近いかは500年近く経っていると推測するしかないでしょうね~。
まあ心情的には三番目が近いと思いたいのですが、いずれも決め手に欠けるような気もします^^

意外と二番目だった可能性も否定できないと思います。
あくまで私の独断と偏見ですわよ(爆)

Re: No title

> こんにちは☆
>
> 通説はいくつかあると思いますが、どれが真実に近いかは500年近く経っていると推測するしかないでしょうね~。
> まあ心情的には三番目が近いと思いたいのですが、いずれも決め手に欠けるような気もします^^
>
> 意外と二番目だった可能性も否定できないと思います。
> あくまで私の独断と偏見ですわよ(爆)
はっきりわかりませんね。
私見では、二番目は1600年の九鬼の大野乱入と混同しているのではないかと。
三番目も佐治が蟹江で家康に船を差し出したのは、事実に無理があります。ただ秀吉がお江を奪うための口実に使われてのではないかと思っています。事実でなくても事実にされてしまった。ありえるかと。四番目ですが…後日お話します。
他の皆さんはどうお考えでしょうか?

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プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

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