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蟹江の合戦

kaniesiroato.jpgもう一度、
秀吉佐屋川の船を断切りしかば家康殆んど窮したりけるを信方一成父子船を大野より出し之を救ふ(将軍御外戚伝)らしき事実が
本当にあったのか、「蟹の合戦」をおさらいしてみます。
信方一成父子というのは論外ですが、少なくとも、一成だけでも家康を助けたかどうか。

の合戦とは、
天正12年(1584年)6月に起こった尾張南西部における羽柴秀吉(1586年、豊臣賜姓)陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた戦い。主に蟹城における篭城戦であった。
天正12年6月16日
前田種定は、秀吉陣営の調略を受け入れる。
同時に種定の弟・前田長俊の守る下市場城及び、長男・前田長種の守る前田城も秀吉陣営となったが、大野城の山口重政は母親を人質に取られているにも関わらず調略に応じなかった為、滝川・九鬼勢は城攻めを行い、陥落寸前まで追い込んだ。
同日、蟹城落城の報せを聞いた家康・信雄は大軍を率いて蟹城に急行、陸路を断たれた滝川勢は海上経由で蟹城に、九鬼勢は下市場城にそれぞれ逃れ篭城。家康は大野城に入城した。
(ウキペディアから引用)

この合戦を調べるには、武田茂敬『蟹江城合戦物語』がオススメ。
大変詳しく書かれていて、色んな武将の名が書かれてますが、一字たりとも佐治の名はない。
古文書なら、太閤記・勢州軍記・尾州表一戦記・譜牒余禄・寛永暑家系図伝に蟹江の合戦が書かれているが、一切佐治の名は見当たらない。
また、蟹江町史に紹介されている「蟹江合戦ー小牧長久手合戦のうちー」(P113~163)も同様、佐治の名はない。
それどころか、P116。
4月…当時、徳川の水軍は知多郡大野(常滑市大野)に集結していた。
紀伊国牟婁郡向井(三重県尾鷲市向井)の出身向井兵頭助正綱(忠安)・伊勢小浜(鳥羽市小浜)の出身小浜民部左衛門尉景隆・伊勢千賀(鳥羽市千賀)の出身千賀孫兵衛重親や、もと武田水軍の伊豆国出身である間宮造酒之丞信高などである

知多郡大野は佐治水軍の拠点である。それなのに佐治の名がないではないか。
やはり滝田英二氏説の通り、3月の岡田事件の時に、佐治は大野城を追われたというのが妥当では…。

結論、
佐治与九郎一成は蟹江の合戦に参戦しておらず、
家康に舟を差し出して助けたことで、そのことを怒り秀吉はお江と一成を強制的に離縁させた…
という話は、やはり事実ではないとしか言いようがない。
また、ただの日向守と言えばまずは明智光秀のことであり、
佐治日向守という存在しない人物は、頭首に謀反を起こした象徴として、その名で創作されたものではないだろうか。
(ヨクロー)

 別れの予感 テレサ・テン

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tag : 大河ドラマ

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ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

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