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おきたおぬいホリオコシ奮戦記 5

内海岡部城近くの北脇が「おきた脇」?
CRW_1856.jpg

Yさんが教えてくれた「おきた脇」ではと思われる場所までいってみた。
内海岡部城の近く、内海中の西北の方向、福谷(ふぐや)池を入り口とする渓谷がそれだ。
福谷(ふぐや)池にバス釣りをしている若者がいたが、車のナンバープレートを見ると遠方から来ている。

「こりゃ、与九郎やおが逃れ、お姫様をかくまうには、もってこいの場所だな。おきた脇はここでまちがいないな」
ハカセが言う。
確かにそうは感じるのだが、それだけで決めつけるのはあまりに弱いのでは。
はじめて意見が分かれた気がした。
「取り合えず、奥まで行ってみませんか」
「いや、もうそこまで時間がないよ」
ハカセは拒む。時間はもう夕方5時を過ぎていた。
渓谷はとても険しく、人がいるような所ではない。奥まで行って戻ると暗くなってしまう。

そんな時、犬を散歩に連れて歩いているおじさんに出会う。
地元の人にまちがいない。
「すいません。ちょとお聞きしたいことがあるんですが、実はこの地に佐治のお姫様が…」ハカセが訊く。
「お姫様がここでかくまわれた?私は40年前ここに越してきました。歴史も詳しくありません。でも確かにそのような話、先輩に聞いたことがありますな」

帰路の車中、ハカセと私の表情はあまりに対照的だった。
「Yさんの言うのはまちがいなかろう」とハカセ。
「はあ」と生半可な返事をする私。
決してY説を否定する訳ではないが、イマイチ釈然としなかった。
大野城落城→与九郎お、内海佐治に逃れる→二女出産→与九郎お、見つかる→お秀吉の下に、与九郎信包の家臣に、娘達は残る。…という流れ?
という流れなら、逆にあそこまでの秘境にかくまう必要があるのだろうか。
どうなんだろう。
内海佐治家や千賀家のこと、そして今一度、須佐のおきた脇も調べてみてみようと思った。

ちなみに「」が再来年の大河ドラマになると発表されたのは、この日の二週間後だった。
ただただ、驚くのみであった。
(ヨクロー)


弘田三枝子/レオのうた
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tag : 大河ドラマ

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おきたは来た!?

ヨクローさん、こんにちはv-22
北脇在住の者です。私もY氏から情報を得て以来、おきたさんの存在を知りたくなった歴史見物人の一人です。
ホリオコシ隊の活躍に期待しております。ただ、写真の池を別所(べっそ)池としていますが、福谷(ふぐや)池の誤りではないでしょうか。別所(べっそ)池は馬場区の管轄になります。
この福谷池の1キロくらい奥の山間(いわゆる脇)に人が住んでいたという話は言い伝えとして聞いていますし、住居跡らしき石垣や畑から茶碗が出土したという話も聞いております。
その昔、内海は名前のとおり入り江のようになっていた時代がありました。福谷池の奥など他にも山間に住んでいた人々が徐々に今の平地に移転してきたようです。詳しいことはわかりませんが、私もいろいろ調べてみたいと思っています。大野町史も見たいですね~v-237

Re: おきたは来た!?

> ヨクローさん、こんにちはv-22
こんにちは~
> 北脇在住の者です。私もY氏から情報を得て以来、おきたさんの存在を知りたくなった歴史見物人の一人です。
Y氏ご存知ですか。
> ホリオコシ隊の活躍に期待しております。ただ、写真の池を別所(べっそ)池としていますが、福谷(ふぐや)池の誤りではないでしょうか。別所(べっそ)池は馬場区の管轄になります。
早速、訂正します。
> この福谷池の1キロくらい奥の山間(いわゆる脇)に人が住んでいたという話は言い伝えとして聞いていますし、住居跡らしき石垣や畑から茶碗が出土したという話も聞いております。
実は、そこにも行っています。今度書きますね。
> その昔、内海は名前のとおり入り江のようになっていた時代がありました。福谷池の奥など他にも山間に住んでいた人々が徐々に今の平地に移転してきたようです。詳しいことはわかりませんが、私もいろいろ調べてみたいと思っています。大野町史も見たいですね~v-237
ぜひ調べてください。大野町史、図書館にあると思います.
今度ともよろしくお願いします。

おきたさんの謎

ヨクローさん、こんばんはv-237
いよいよ、大河ドラマ「江」が始まりましたね。
大野町史ならびに佐治与九郎覚書を読み、大野城も見学して参りました。小督姫の見た伊勢湾や鈴鹿連峰も綺麗でしたね~v-218
さて、素朴な疑問ですが、大野町史には「須佐村に小居」とあり、須佐村(現在の豊浜)に断定していますが、「須佐村附近」とした覚書の方は井上靖氏の創作なのでしょうか?附近があるとないとでは大きな違いがあると思うのですが、ヨクローさんはどのようにお考えでしょうか?
私は大野町史の説を信頼して、須佐村に絞って江戸時代の村絵図を調べてみました。しかし残念ながら、そこにはおきた脇の地名は存在しませんでした。推察するに、元々の地名とは別にニックネーム的に付けられていた名前と考えられるような気もします。内海地区にも地図上の地名とは別に、通称で人々から口伝された地名もありますから。・・・そう考えると、豊浜の古老に尋ねることも必要かもしれませんね。

また、佐治没落を天正18年と考えると、千賀家は関東の三崎に配置換えとなっているので、与九郎も千賀家を頼ることはできそうもないのですが、千賀家の水軍だけが三崎に移ったと考えれば、師崎・須佐あたりに千賀家の関係者もしくは従者がいて、娘二人を養育するくらいの力を持っていたのではと推察したりもしてます。
ここまでは、私なりの須佐村説です。

次に内海の北脇説で考えた場合、北脇は須佐村から10kmくらい離れた場所であり、山を三つ四つ超えた所であることから、おきた脇=北脇と考えたいところですが・・・
では、それをどのように結びつけるか。
大野から見た内海と須佐の距離感が一つの地域と見られていたならば、考えられなくもないですが、私が推察するに、師崎の千賀家に厄介になるつもりであったが、三崎に配置換えになっていたことから、しばらく須佐に滞在した後に親戚である内海佐治を頼ることとなり、内海の「とある地」に住むことになった(後に北脇となる)。
大野の人たちの耳には、千賀家に厄介・須佐村・おきた脇という断片的な情報が入り、口伝として語られるうちに須佐村のおきた脇に短縮されたのではないかと考えたりしています。

正確な情報がない今、歴史ロマンに浸るしかないのが寂しいかぎりですが・・・
誰が書いたか、ウィキペディアには、おきたさんが父母の離縁を機に入水したと書いてあります。根拠になった出典は不明なので信憑性はありませんが、それならば今度、大野町史の一説をウィキペディアに掲載してもいいのではないかとも思っています。
折りしも「江」ブームで関心のある人も多いと思いますし。
ヨクローさんはどう思われますか?
では、また。

Re: おきたさんの謎

北脇人さん、気合の入ったコメント有難うございます。
そして、返事が遅くなってごめんなさい。ずっと資料館準備で忙殺していました。
尾張大野歴史資料館、何とか1月15日にオープンしましたので、今度そちらにもぜひお越しくださいね。
大河ドラマ「江」実は忙しくてまだ見てないです(汗)あとでビデオでゆっくり見ます。
感想お聞かせください。
井上靖氏は大野町史を参考に書いています。創作ではありません。ある人が氏に町史を渡したそうです。
「須佐村附近」のおきた脇については、ブログに書きます。ちとお待ちを
豊浜の古老さんに私も会いたいです。色んな人に尋ねましたが、まだそういう方にお会いできてません。
北脇人さん捜して頂けるとありがたいのですが…。
千賀家についても精査しているつもりですのでそれもブログで書きます。
北脇人さんの推察かなり鋭いですね。そうかもしれませんね。
口伝は、歴史研究家の方はあまり踏み込まない領域ですので、逆に我々歴史マニアがフットワークを使って歴史を掘り起こしてみたいですね。
ウィキペディア…良くもあり悪くもあり。まあ便利は便利ですので騙されない様に上手に使いましょうという所でしょうか。おきたさんが父母の離縁を機に入水したはありえない。小説の一節が捻じ曲げられたと思います。ウィキペディアにも出典先を書いてほしいですね。大野町史の一説はもう少し裏を取ってからのほうがいい様な気がします。

またコメント下さいね。

おきたさんの道

>北脇人さん、気合の入ったコメント有難うございます。
そう言っていただき、うれしいです。
>そして、返事が遅くなってごめんなさい。ずっと資料館準備で忙殺していました。尾張大野歴史資料館、何とか1月15日にオープンしましたので、今度そちらにもぜひお越しくださいね。
中日新聞でバッチリ情報をキャッチしました。ただ、場所が書いてなかったので問い合わせました。尾張大野郵便局の旧局舎とわかりましたので、ぜひ寄らせていただきます。
それから、先日(1月7日)、大野城の天守閣から伊勢湾を眺めさせていただきました。
>大河ドラマ「江」実は忙しくてまだ見てないです(汗)あとでビデオでゆっくり見ます。感想お聞かせください。
2回とも観ましたよ。津の伊勢上野城での暮らしがスッと過ぎてしまいアララと思いました。
大野でのシーンが充実したものであることを願うばかりです。
>井上靖氏は大野町史を参考に書いています。創作ではありません。ある人が氏に町史を渡したそうです。
やはりそうでしたか。ただ、大野町史だけではなく、城山を散策して情景描写などを練り上げたんでしょうね。さすがですね。
>「須佐村附近」のおきた脇については、ブログに書きます。ちとお待ちを
今となっては井上氏にも聞けませんが、附近とした経緯が知りたいですね。
>豊浜の古老さんに私も会いたいです。色んな人に尋ねましたが、まだそういう方にお会いできてません。北脇人さん捜して頂けるとありがたいのですが…。
ヨクローさんも頑張っていますので、私も頑張ります。
>千賀家についても精査しているつもりですのでそれもブログで書きます。
期待しております。ブログをよろしくです。
>北脇人さんの推察かなり鋭いですね。そうかもしれませんね。
口伝は、歴史研究家の方はあまり踏み込まない領域ですので、逆に我々歴史マニアがフットワークを使って歴史を掘り起こしてみたいですね。
最近、内海の山奥の古道を歩いていましたら、道が二つに分かれる所に出ました。そこに立っている道標を見ると、ナント「左 のま 右 大の」と記されているではありませんか。それを見て私は、内海にとって大野は身近な存在であったと確信しました。内海佐治もありますし・・・
いつ誰が立てたか定かではありませんが、今では「大の」へ向かう道は南愛知カントリーに阻まれてしまっています。野間の内扇へと向かう道筋であったことは確かめられましたが・・・
そして、内海にある「おきた脇」らしき地区からもその道につながっているのです。まさにその昔、国道も県道もない時代、その地区は主要道と結ばれていたのです。歴史ロマンですね~。
>ウィキペディア…良くもあり悪くもあり。まあ便利は便利ですので騙されない様に上手に使いましょうという所でしょうか。おきたさんが父母の離縁を機に入水したはありえない。小説の一節が捻じ曲げられたと思います。ウィキペディアにも出典先を書いてほしいですね。大野町史の一説はもう少し裏を取ってからのほうがいい様な気がします。
江ブームにより、ウィキペディアを見る人も多い今、大野町史の存在をアピールする絶好の機会かと思いましたが、ヨクローさんのおっしゃるとおりですね。
では、また。

Re: おきたさんの道

> 最近、内海の山奥の古道を歩いていましたら、道が二つに分かれる所に出ました。そこに立っている道標を見ると、ナント「左 のま 右 大の」と記されているではありませんか。それを見て私は、内海にとって大野は身近な存在であったと確信しました。内海佐治もありますし・・・
> いつ誰が立てたか定かではありませんが、今では「大の」へ向かう道は南愛知カントリーに阻まれてしまっています。野間の内扇へと向かう道筋であったことは確かめられましたが・・・
> そして、内海にある「おきた脇」らしき地区からもその道につながっているのです。まさにその昔、国道も県道もない時代、その地区は主要道と結ばれていたのです。歴史ロマンですね~。
貴重な情報ありがとうございます。
昔はまじ大野は栄えていたんですよね。
地元の武将のことも我々はもっと理解すべきだと思います。
ところでY氏お元気でしょうか?
上清水貝塚で発掘調査を頑張ってらっしゃると思いますが。
プロフィール

ヨクロー

Author:ヨクロー
2011年NHK大河ドラマ「江」の最初の嫁入り先「尾張大野」
この地の郷土史研究を楽しく行なっている会です。
(写真の江は、あいち戦国姫隊の江姫です)

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